特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

ボゴリューボヴァ村にある、アンドレイが建てたネルリ河畔のポクロヴァ聖堂

第64回 ノヴゴロドとの衝突

 大公アンドレイは、キエフを破壊し普通の分領公国におとしめた後、ノヴゴロドの支配に本腰を入れ始めた。当時ノヴゴロドを治めていたのは、キエフ大公位から引きずり下ろされたムスチスラフ二世の息子ロマンであった。手始めにアンドレイは、ノヴゴロドの北方にあるドヴィナの地へ軍隊を差し向け、そこで地元住民の援助を期待した。彼らの間にはノヴゴロドの統治に対する多くの不満があったからである。しかし、ロマンの強力な従士団は、ノヴゴロドの税金徴収人らを保護し、アンドレイの軍隊に残酷な敗北を与えた。この機会を利用して、ノヴゴロド人はノヴゴロドと国境を接しているアンドレイの領地からも税金を巻き上げるようになった。大公側は連合軍を集める必要があった。その軍隊はアンドレイの息子ムスチスラフの指揮下に置かれ、北方を目指した。連合軍はノヴゴロドの各地を通過しながら、仮借ない残酷な手段で土地土地を滅ぼしていった。1170年2月22日、連合軍はノヴゴロドに接近し、三日間町を包囲し続けた。しかしながら、四日目、ノヴゴロドの人々は突然見事な出撃を繰り広げ、ムスチスラフの軍隊を撃破し、敗走させた。

 アンドレイはしばらくの間静観していたが、翌年ノヴゴロドの各地で不作が起こり、状況は彼に有利となった。他の郷からノヴゴロドへ入る穀物補給の道を閉ざしたアンドレイは最初に、ノヴゴロドの人々にロマンと手を切らせ、その後、自分のところに公を求めに来るよう強いた。そこでは無論、アンドレイの意図によって公が与えられるのであった。ノヴゴロドへ赴いたのは、かつてのキエフ大公ロスチスラフの息子、リューリックであったが、彼は住民たちと折り合わず、1172年には彼に代わってアンドレイの息子ユーリーが統治するためにノヴゴロドへ到着した。アンドレイの息子たちが、彼のあらゆる仕事に非常に積極的に参画していたことは注目すべきことである。彼ら息子たちの運命はさまざまであり、年長の息子であるイジャスラフとムスチスラフは、父親がまだ存命している時に亡くなった。その下のユーリーは、年代記上では実質的な言及がない。ノヴゴロドの人々はアンドレイが亡くなるとすぐに彼を追放し、ユーリーは何らかの方法でグルジアへ赴くと、有名な女王タマーラの夫となった。

 アンドレイの統治方法は、時と共に誰の目にも明らかなほど残酷さを帯びていった。彼は自分の敵対者を容赦なくこらしめ、住民には過度の税金を課した。背が低く、肩幅が広く、たくましく、黒い巻き毛と大きな明るい瞳をしたアンドレイは、信心深い人間でもあり、聖職者ばかりでなく、やもめや孤児にも気前よく贈り物を贈った。ウラジーミルのそこかしこに、彼の名前によって定期的にはちみつや食糧が、貧乏人や病人、乞食のために送り届けられていた。それにもかかわらず、大公は住民の愛情を獲得することができず、多くの者が単純に彼を嫌っていた。ロストフ-スーズダリの古参の貴族も、自分たちを厚遇しないアンドレイに不満を抱いていた。

リューリック朝系図

 次回は「大公アンドレイ、惨殺される」。乞うご期待!!

(大山・川西)



HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第64回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
НПО Канагавское общество "Япония-страны Евразии"

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.