◆ 第67回 フセヴォロド三世(大巣公、統治1176-1212)の生い立ち
ユーリー・ドルゴルーキーの末の息子であるフセヴォロド(洗礼名ドミートリー)は、兄のアンドレイ・ボゴリュブスキーと同じく、北方ルーシに腰をすえ、その地の経済発展と領土拡大、また自らの政治権力の強化に全力を傾けた。このフセヴォロドは後に全ルーシの大多数の諸公から“父”と敬われ、初めて公式的にウラジーミル大公を名乗るようになる。
フセヴォロドは、兄の大公アンドレイが1162年までに分領公国制度を廃止した時に、まだ成人に達していなかった。いまや大公アンドレイの兄弟や息子らは独立した統治者ではなく、それぞれの町で大公の職務を肩代わりする代官にすぎなかった。幾つかの史料は、アンドレイが自分の兄弟たちをロストフ-スーズダリの地から追放してしまったと伝えている。フセヴォロドがしばらくギリシアに住んでいたのも、おそらくこれと関連するのであろう。
大公アンドレイの兄弟らは、しかるべき理解をもって、あるいは強いられた従順をもって、分領公国の廃止を受け入れた。いずれにしても、諸史料はこのことが発端となっての諸公間の内乱については言及していない。
大公アンドレイがクリャージマ河畔のウラジーミルへ首都を移した後、フセヴォロドの兄のグレープがキエフの統治者として残った。しばらくしてグレープが亡くなると、アンドレイはキエフを、スモレンスクのロスチスラフの子たちに引き渡した。彼らは大公ロスチスラフ一世の子らであり、ウラジーミル・モノマフのひ孫であった。そうしてかつての首都で、元大公ロスチスラフ一世の息子のロマンが統治を始めたが、しばらくしてアンドレイの意志により、ロマンはフセヴォロドにとって代えられた。スモレンスクのロスチスラフの子らは南ルーシの首都を引き渡すことを望まず、1173年、力ずくで再びキエフ公位を奪取し、フセヴォロドを捕虜とした。大公アンドレイが亡くなった後、フセヴォロドは囚われの身から解放され、彼はペレヤスラヴリ-ザレスキーへ去った。
その後1175年の5月末、フセヴォロドは、兄ミハイルが甥たちの軍隊を撃破してウラジーミル大公位につくことを助けた。ミハイルは大公位に就くと、ペレヤスラヴリ-ザレスキーの統治に早くもフセヴォロドを任命したのである。
次回は「戦闘に次ぐ戦闘―フセヴォロド三世の道のり」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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