
◆ 第68回 戦闘に次ぐ戦闘―フセヴォロド三世の道のり
フセヴォロドの兄のウラジーミル大公ミハイルは、大公位に就いて一年ほどした1176年に亡くなった。ウラジーミルの人々は自らの統治者として、ミハイルの弟のフセヴォロドを招き、彼に宣誓した。こうしてフセヴォロド三世が誕生する。ところが、ロストフの有力者はまたもや新首都から袂を分かとうとした。ミハイルが亡くなる少し前に、ロストフの有力者は、再びフセヴォロドの亡くなった兄ロスチスラフの息子ムスチスラフを招聘し、ムスチスラフは報復に向けて準備を始めた。ミハイルの死から数日後にはすでに、ムスチスラフの軍隊はウラジーミルへ向かって進軍していたが、6月27日の遭遇戦において、新大公フセヴォロド三世の従士団によって撃破された。反乱を起こしたロストフの有力者たちはあちらこちらの牢獄に入れられ、彼らの領地は大公国の財産として没収された。一方、ムスチスラフはうまくノヴゴロドへ逃れ、そこから自分の娘の夫であるリャザン公グレープに、ウラジーミルへ進軍するよう煽り立てた。グレープはその誘いに乗り、1176年の冬に遠征へ出発した。決戦は早くも翌年、コロクシャ川のほとりで行われた。グレープの軍隊の壊滅ははなはだしく、その後、フセヴォロド三世の軍隊はリャザンを占領した。反乱の首謀者であるグレープと息子ロマン、そしてムスチスラフは捕えられたが、しばらくして大公は彼らを解放した。
傑出した個人的勇敢さと武勲によって際立っていたフセヴォロド三世は、紛争が流血を伴う衝突になる前にそれを解決しようと努めた。しかし、彼が大公位に就いた時も、それに続く年々も彼は戦わざるを得ないような、そのような状況ができあがっていた。ヴォルガのボルガル人との対立はすでに何年も続いていた。ボルガル人は定期的に、南方の国々への通商路を閉ざしていた。ヴォルガ川へのフセヴォロド三世の遠征は、1183年に完全な勝利を得、その後1186年まで彼は、カマのボルガル人に何回かひどい打撃を与えた。
ウラジーミル大公フセヴォロド三世は南ルーシも放ってはおかなかった。軍事衝突なしではすまなかったとはいえ、彼は積極的に地元諸公の問題に介入し、彼らの側からの油断ならない抵抗も恐れなかった。その頃、ルーシには、同盟関係にあるポロヴェツの諸公を別にして、すでにおよそ100人の諸公がいたが、彼らの一人一人が何らかの手段によって、より良くより広い領地を獲得しようと戦闘を繰り返していた。加えて、南方の諸公はウラジーミル大公の援助なくしては、ステップの遊牧民との戦いを耐え抜くことはできなかっただろう。1195年、フセヴォロドはキエフ近くのペレヤスラヴリの統治に、信頼でき期待できる貴族らと共に自分の4歳の息子ヤロスラフを送り出した。1198年には、ポロヴェツ人を、南方の国境からはるか先の黒海沿岸まで追い払った。さらに1201年までには、彼の先駆者たちがいかにしても獲得できなかった、ノヴゴロドを完全に服従させたのである。
次回は「リャザンの抵抗」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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