◆ 第69回 リャザンの抵抗
1207年、フセヴォロド三世は年長の息子たちを連れて、キエフ諸公間の内乱を利用して南ルーシの諸土地を荒廃させていたポロヴェツ人を倒すために遠征へ出立した。加えて、キエフにおける自分の味方である、故大公ロスチスラフ(ユーリー・ドルゴルーキーの兄ムスチスラフの子)の息子リューリックが援助を必要としていた。というのも、チェルニーゴフ公がキエフの地に対して戦いを挑んでおり、すでにもう数回、キエフを巡って争奪が繰り返されていたのである。
ある時、オカ河畔のチェルニーゴフ公の軍隊に、前もって定められていたかのように、それぞれの軍隊を引き連れたムーロムとリャザンの軍司令官が合流した。その時、フセヴォロド三世には、リャザンとチェルニーゴフの諸公が彼に対して何らかの謀反をもくろんでいるかのように報告された。この陰謀に関する情報は悪意ある誹謗であったかもしれないが、フセヴォロド三世はリャザンに向けて軍隊を展開した。彼の本営に挨拶にやってきたリャザン諸公に、大公は露ほどの疑いも抱かせず、その敵対心を隠して巧みに振る舞った。結果として、枷をはめられたリャザン諸公は監視の下ウラジーミルに送られ、プロンスクとリャザンが占領された。
1208年、リャザンの統治に大公の息子ヤロスラフが、他のリャザンの諸都市には大公の代理人たちが到着した。リャザンの人々は最初は陰で不平を言っていたが、その後、公然たる抵抗に踏み切った。ヤロスラフを追って進んでいた主要輸送隊を押さえた後、リャザンの人々は兵隊の一部を鎖でつなぎ、また一部を生きたまま古い穴蔵の中に埋めてしまった。リャザンの反抗的な者たちを鎮圧するために、従士団と共に大公自身が赴いた。リャザンとベルゴロドから家財道具と家畜を伴った住民が連れ出され、両都市は焼かれた。この後、フセヴォロド三世は、リャザンの地に自身の年かさの代官を残し、息子と共にウラジーミルに去った。彼らと一緒に出発したのは、捕虜となったリャザンの主教アルセーニーと、多くの地元の家族であり、大公に対する反抗のとがで罰を受けた彼らは、ウラジーミル公国で一から生活を始めなければならぬ羽目となった。さまざまな年代記は、この事件を1208年や1209年、また1210年と位置づけている。リャザンの事件後、フセヴォロド三世はもう軍事力に頼らずに、リャザンの同盟者であったチェルニーゴフの諸公を静めた。
リャザンとの大規模の衝突は、フセヴォロド三世のほぼ40年にも渡る統治の全体的行路からは、あたかも別個に存在しているかのようである。ルーシ諸公は、彼に対して完全に自覚的な従順さを持って対していた。というのも、大公が腕力に訴えることなく支配することを望み、非常に深刻な理由がなければ、決して分領公国を取り上げたりはしないことを、彼らは知っていたからである。民衆も同様、不満を持つ理由を持っておらず、それ故に自分たちの君主を愛し敬った。統治問題や諸公の裁判において、フセヴォロドは常に古代の慣習に従い、厳しく法的な公正さを守り、高官たちにもそれを強いた。
次回は「フセヴォロド三世の呼び名―“大巣公”の由来」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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