日露領土問題の歴史(13)竹内徳兵衛一行の漂流
1744年(延享元年)11月14日、下北半島佐井村の商人、竹内徳兵衛が佐井湊(現在の青森県下北郡佐井村)から新造北前船「多賀丸(1200石積)」に水主(かこと読む、船員の意味)17名と共に乗船、大豆・昆布・魚粕等を満載し、江戸に向け出航した。(大畑湊⦅現在のむつ市大畑町⦆出港説もあり)
船員数が多いのは北前船が帆走・櫓漕兼用であったためである。
しかし、暴風により遭難、半年もの漂流後、翌年5月、千島のオンネコタン島に漂着した。乗組員17名の大部分が下北半島の漁村の出身であった。オンネコタン島に漂着した時には、既に6名が死亡、上陸間もなく船主の徳兵衛も死亡した。残る10名はカムチャツカ半島のボリシェレックに送られ厚遇を受け、ロシア名まで付けて貰った。
三之助=イワン 利八郎=マトヴェイ 勝右衛門=グリゴリー 伊兵衛=パンテレイ 七五郎=アンドレイ 勇三次=フオーマ 久寅=ピョートル 久助=エワン利助=パーヴェル 長助=プィリップ
この内の5名は、ロシアの首都サンクトペテルブルグに招かれ、日本語学校の教師を命じられた。彼らはここで結婚し、子どもが生まれ、1754年(宝暦4年)日本語学校のイルクーツク移転に伴い、彼らもイルクーツクに移った。イルクーツクではロシア初の「露日辞典」が編集されたが、その日本語は、南部の方言であった。1778年(安永7年)ロシア使節団が、わが国に通商を求めるために根室半島のノッカマップに来島、この使節団の中に日本語学校教師の二世がいたと伝えられている。函館に来た使節団の中にも二世がいたと言われる。
日本語学校は、帝政ロシアが、わが国との通商を目的として創立したものである。
江戸時代のロシアの対日政策の主目的は平和的な交易であり、幕末の米国の「砲艦外交」とは大きく異なっていた。
千石船とは「もみ米1000石(約150t)を積載できる船」の意、幕府の鎖国政策のため、外洋航海の為の天測儀の携行を禁じられていたため陸測航法によるほかなく、これが荒天時に難船,漂流の主因となった。
~続く~
(柴田)