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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第98回 ヤロスラフ、大公位に就く

ダウマンタス  大公ネフスキーが進軍してきたためにノヴゴロドを立ち去ることを余儀なくされたヤロスラフであるが、その後数年間、彼がどこに身を隠していたのか、年代記作者たちは言及していない。しかし、1258年、ヤロスラフは兄のネフスキーと、スウェーデンから戻ったアンドレイと共に汗国を訪れ、そこでは気持ちよく歓待され、ルーシに帰国後は自分の世襲領地であるトヴェーリへと戻った。数年前にネブリュイ汗によってペレヤスラヴリ-ザレスキーで捕えられ、汗国へ連れ去られていた彼の息子たちが、共に帰国したことは考えられる。

 数年間、ヤロスラフはごくあたりまえの公としての諸事に携わっていた。1262年、大公ネフスキーの指示にしたがって、彼はノヴゴロドを治めていたネフスキーの息子ドミートリーと共に、ユーリエフの町(現エストニアのタルトゥ)を攻撃した。遠征は成功した。大量の戦利品が獲得され、ドイツ人を相手に有利な通商条約が結ばれた。

 1263年11月、大公ネフスキーが死去した。ヤロスラフのウラジーミル大公位への道を阻む者は、彼の兄であるかつての大公アンドレイ二世だけであった。双方とも、大公国の運命は汗国の汗たちの手中にあることをよくよく理解していた。したがって、互いに公然たる争いには足を踏み入れなかったが、汗国には双方共に自らの使者を差し向けた。ベルケ汗はヤロスラフのみ出頭を要求し、汗国へ赴いたヤロスラフは1264年8月、大公国の勅書を手にしてヤロスラフ三世となった。その後、彼は汗の使者ジャニベクを伴って汗国を後にした。

 最高権力者の交代劇は、ノヴゴロドにもすぐ影響が出た。ノヴゴロドでは、ウラジーミル大公をノヴゴロドの統治者として招致することが伝統となっていたからである。ネフスキーの息子ドミートリーを追放したノヴゴロドの人々は、ヤロスラフ三世に使者団を派遣し、彼は翌1265年の1月には大いなる敬意をもって迎えられ、ノヴゴロドの公位に就いた。同年この地でヤロスラフは再婚し、地元の貴族の娘であるクセーニヤを娶った。その七年後に、この結婚でなした唯一の子である息子ミハイル(後の大公)が誕生したが、それは父親が死んで数ヵ月後のことだった。

ミンダウカス

 最初の結婚で誕生した大公ヤロスラフの長男スヴャトスラフは、1265年半ばからプスコフを統治し始めた。翌年リトアニアからそこに、公家を含むおよそ300のリトアニアの家族が逃亡してきた。それにはこのような背景がある。1263年、リトアニア大公ミンダウカスが、ダウマンタス(ミンダウカスの義兄弟)とトレニオタ(ミンダウカスの甥)の共謀によって殺害された。翌1264年、トレニオタがミンダウカスの長男ヴァイシュヴィルガスによって殺されると、ダウマンタスとその仲間はヴァイシュヴィルガスの復讐を恐れてプスコフへ逃れてきたのである。

 次回は「ヤロスラフ大公とノヴゴロド」。乞うご期待!!

(大山・川西)

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