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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第97回 ヤロスラフ三世(統治1264-1272年)の青年期

ヤロスラフ三世  大公アレクサンドル・ネフスキーの父親のヤロスラフ二世は、1241年から43年の間に自分の五番目の息子であるヤロスラフにトヴェーリを分領地として分け与え、ヤロスラフはトヴェーリの地の最初の独立公となった。ヤロスラフ二世の後継者となったその弟スヴャトスラフ三世は、トヴェーリを甥のものとして認めた。その後ヤロスラフは、大公位をめぐる叔父スヴャトスラフ三世と兄ミハイルとの数ヶ月に渡る紛争に介入しなかった(第83回参照)。また、彼の長兄であるアレクサンドルと次兄であるアンドレイ二世との間の大公位をめぐる闘争に、トヴェーリ公が参加したという直接の記述は年代記の中にない。しかし、諸事情から判断するに、彼はアンドレイの側に立っていた。1252年、アレクサンドルがウラジーミル大公国の勅書に関して異議を唱えるためにキプチャク汗国に向かった時、ヤロスラフの従士団は軍司令官ジジスラフの指揮の下、大公アンドレイ二世の従士団と協力して、アレクサンドルの世襲領地であるペレヤスラヴリ-ザレスキーを占拠した。トヴェーリとは異なって、この町はよく防備が固められており、ヤロスラフはそこへ自分の家族―妻(名は不明)と二人の息子(スヴャトスラフ、ミハイル)―を移した。大公国統治の勅書を持ち帰ったアレクサンドルは、ネヴリュイ汗の指揮するタタール人の部隊を引き連れて汗国から戻ってきた。ネヴリュイ汗は、更迭された大公アンドレイ二世を汗の裁判にかけるために汗国へ護送する必要があった。その要塞の強固さにもかかわらずペレヤスラヴリ-ザレスキーがタタール人に占領されると、ヤロスラフの妻は殺され、子供たちは汗国に連れ去られてしまった。

現在のトヴェーリ  この事件の後およそ一年間ほどヤロスラフはトヴェーリにいたが、1254年にはごく近しい側近の貴族らと共にラドガへ逃亡した。逃亡の理由は、年代記には記されていない。おそらくヤロスラフは、ペレヤスラヴリ-ザレスキーの占拠と防衛においてアンドレイを援助したことによる兄アレクサンドル・ネフスキーからの復讐を恐れていたのであろう。ラドガではヤロスラフは気持ち良く受け入れられたが、彼はそこには長居しなかった。その頃、ノヴゴロドでは、大公ネフスキーの息子であるヴァシーリーの統治に不満を抱く者もおり、都市住民は二つのグループ―ヴァシーリー派とヤロスラフ派―に分裂していた。ヤロスラフの支持者たちが勝利を握ると、まず初めにヤロスラフをラドガからプスコフへ移し、その後、1255年にヴァシーリーをノヴゴロドから追放して、ヤロスラフをノヴゴロドの統治者として呼び寄せたのである。しかしながら、町における二つのグループの争いは静まることなく、追放されたヴァシーリー公の支持者たちは敗北を認めないで、大公アレクサンドル・ネフスキー自身が息子を助けるために軍隊を率いて進軍してくることとなった。この場合、ヤロスラフはノヴゴロドを立ち去る以外なかった。

 次回は「ヤロスラフ、大公位に就く」。乞うご期待!!

(大山・川西)

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