
◆ 第95回 ヒヴァ汗国商人の到来と民衆蜂起
1250年代から60年代にかけて、キプチャク汗国はモンゴル帝国(首都カラコルム)から事実上徐々に独立していった。そんな折の1262年、ルーシの北東の諸都市に、イスラム教を信仰するヒヴァ汗国の商人がやって来た。モンゴル帝国の皇帝フビライ汗から派遣された彼らは、ルーシの幾つかの都市で貢税を徴収する徴税代理権が与えられていた。キプチャク汗国の徴税代理人と比べて、ヒヴァ人は極めて残酷に行動した。滞納金には莫大な利子を加算し、もし払えるものが何もなければ、人々を奴隷として連れて行った。加えて、商人はキリスト教に対する無礼さを隠そうともせず、厚かましく振舞った。こういったことは、民衆の忍耐力の限界を超えさせることとなった。
おそらく、ネフスキーは、いかなる手段を用いても民衆が蜂起することを抑えることはできまいと感じていたのであろう。そして無論のこと、アレクサンドル・ヤロスラヴィチは傍観者でいることはできなかった。彼はまず、ウスチュークの町で蜂起のイニシアチブを取り、正確な史料はないが、他の北東ルーシの諸都市――ウラジーミル、ロストフ、スーズダリ、ペレヤスラヴリ、ヤロスラヴリといった場所でも主導した。それらの町から蜂起が他の町々や移住地に飛び火していった。ウスチューク年代記集成のテクストの中には、住民に蜂起を呼びかけたある書簡に関する言及がある。「タタール人を打ちのめせという大公アレクサンドルからの書簡が、ウスチュークに届いた」。
この蜂起は、タイミング的にまさに絶好であった。というのも、キプチャク汗国ではちょうどその時国内問題が起こっており(ジュチの息子たちがそれぞれ領地を広げ、国内は14の分領地に分かれた)、それどころではなかったからである。そのため、いまいましいヒヴァの徴税代理人がいたるところで殺されたが、モンゴル帝国への不服従に対してキプチャク汗国側からいかなる懲罰措置もなかった。さらにこの蜂起の結果、タタール人はリストに基づいて税を集める徴税代理制度を廃止し、ルーシ諸公自身らに徴収権を引き渡して、彼らの監視の下に税を徴収することを余儀なくさせられたのである。
慎重なネフスキーは、この蜂起の結果に驕ってキプチャク汗国の汗たちの忍耐力を試そうとはしなかった。その1262年の末に、彼は豊富な贈り物を持ってヴォルガ川の岸辺に馳せ参じた(幾つかの史料によれば、ベルケ汗の呼び出しによるものであった)。キプチャク汗国に大公は翌年の夏の終わりまで滞在した。モンゴル帝国に対するルーシの重大な過失にもかかわらず、そこでネフスキーは、ルーシへの懲罰部隊の派遣を阻止しただけでなく、汗国のイラン遠征にルーシの兵士らが参加する義務の免除を汗から得ることにすら成功した。
※写真:ヒヴァの旧市街の城壁(ヒヴァ汗国の首都であったヒヴァは、現ウズベキスタン、ホラズム州の一都市)
次回は「大公アレクサンドル・ネフスキーの死」。
乞うご期待!!
(大山・川西)
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