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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第93回 ネフスキーの巧みな外交政策

リトアニア領の拡大(山川出版社『ロシア史1』より)  東はタタール、北はスウェーデン、西はドイツ騎士団やリトアニアと対峙する困難な状況下で、ネフスキーの賢明さは十分に発揮されることとなった。彼は北西方面(スウェーデンやドイツ騎士団、リトアニア)に対しては徹底した抗戦主義を取る一方、東のキプチャク汗国に対しては恭順の意を示して決して逆らおうとはしなかった。そのような意味で、彼はタタールによるルーシの支配体制をさらに確立させた者ともいえるのだが、一般にロシア史の中では、英断を下した優れた政治家として高い評価を受けている。彼の末子ダニールがモスクワ公となり、このモスクワがロシアを統一したことも、彼に対する評価を揺るぎないものとした。

 というのも、この時代、ルーシが汗国との和平を維持することは、たとえ大きな犠牲を払ったとしても、十分に価値あることだったからである。スウェーデンやリトアニアとは異なり、タタール人は支配者として、ルーシの地それ自体を要求することはなかった。彼らは支配下にある領土内で自分たちの生活様式と宗教を根付かせようとはせず、ルーシ諸公の行政問題に干渉しなかった――彼らには適時に完全に支払われる貢税で十分だったのである。結局のところ、その大部分が森であるルーシの地と長い冬は、遊牧民としての彼らの生活様式には何の益するところもなかったのである。リヴォニアやスウェーデン、あるいはリトアニアを相手に戦争で敗北した場合は、そのようにはいかなかったであろう。土地の占領と植民地化は必然的であり、異国の生活様式や宗教の普及、さらには経済支配を伴うものだったはずである。それゆえに、タタール人との和平は、西方の隣人らのルーシの地侵害の企てを阻止するために、どんな犠牲を払っても絶対に保持しなければならないものであった。ネフスキーの“タタール寄りの”政策は、その状況下で確実で唯一正しいものであったことを時が明らかにしている。結果として1253年には、1242年にリヴォニアと締結していた和平協定が再度確認され、1254年にはノルウェー、そして1262年にはリトアニアと平和条約が結ばれ、さらにリヴォニアのドイツ騎士団、リューベク、ゴートランドを相手に平和と通商に関する条約が締結されたのである。

ドイツ騎士団  1256年、バトゥ汗が死去した。新しく統治者となったのは弟のベルケ汗であり、モンゴルの大汗がいるカラコルムからの分離路線を引き継いだ。ルーシ諸公は、従来どおりに、贈り物を携えてキプチャク汗国の新しい支配者に恭順の意を示すために出発した。事情があって、ネフスキー自らが訪れることはかなわなかったが、彼は使者にベルケ汗宛の高価な贈り物を持たせて差し向け、そのことによって、スウェーデンから戻っていた大公の弟アンドレイがスーズダリを統治する許可を得ることに成功した。

 次回は「ルーシの地の人口調査」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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