日露領土問題の歴史(21)
前号までで太古から幕末に至る千島列島、樺太の領有を巡る歴史について述べた。23回からは明治以降、現在に至るまでの歴史について述べるが、それに先立って今回、次回は(1)~(20)までの要約をしておく。
この地方で知られている最古の文化は紀元前 6~2世紀の南サハリンにおける鈴谷文化人と続縄文時代人の文化である。続縄文化と鈴谷文化は長期に亙って共存していた。
鈴谷文化の時代の次に興ったのがオホーツク文化で、これは、3~13世紀までオホーツク海沿岸を中心とする北海道の北海岸、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化である。
日本書紀には、七世紀に阿倍比羅夫が遠征の途上、大河の河口で蝦夷(アイヌ)と粛慎(オホーツク文化人)の交戦を知り、幣賄弁島で粛慎と戦ったと記されている。
国家が存在していなかった原始共同体の時代には領土、国境などは存在しなかったが大和という本格的国家が成立したこの頃からこの地方での領土をめぐる争いが始まった。
13世紀の半ば頃、主として樺太南部に住むアイヌと北部のギリヤークは勢力圏をめぐって抗争を繰り返していた。1264~1308ギリヤークの要請に応え蒙古(元朝)は樺太に出兵した。
このころロシアの極東地方は元朝の支配下にあった。
鎌倉~室町時代には和人が函館~江差の海岸線付近地域まで侵出し、1457年、コシャマインの乱(和人に対するアイヌの武装蜂起)が起こった。
これより約1世紀、アイヌの蜂起が相次ぎ、生き残った和人の多くは松前付近に集結し、その後の松前藩形成に至る。
松前館主蠣崎慶廣は1591年南部地方で九戸政実の乱が起きると、豊臣秀吉の命により多数のアイヌ人を動員して討伐軍へ参加、戦勝後、朝鮮出兵前の秀吉に謁見し蝦夷での徴税などを認める朱印状を求め、これをアイヌ語に訳し、アイヌ人に「自分の命令に背くと秀吉が10万の兵で征伐に来るぞ」と威嚇し、全蝦夷地(樺太、北海道)の支配を確立した。クリル(千島)列島は日本領には入っていなかった。因みにクリルはアイヌ語で人(アイヌ人)という意味である。
1759年 エトロフの乙名(集団の中での指導者を指す言葉、おとな)カッコロが松前藩に対し、ロシア人がクルムセに居住していることを明らかにした。この後、ロシア人とアイヌ、和人の三つ巴の紛争が長期間続いた。
シャモ(和人)は1550年代には蝦夷が島南部の小部分、松前半島の和人地を占めるに過ぎなかったが、その後徐々に蝦夷地(アイヌ居住地)を侵略し勢力範囲を拡大して行った。
松前藩は和人地と蝦夷地を分離して、シャモとアイヌの混住を禁止し、蝦夷地への移住を拒否したアイヌ人は強制的に和人とし、改氏改名させた。
~続く~
(柴田)