◆ 第106回 アンドレイの秘めたる野心
大公ドミートリーとノヴゴロドとのいざこざに乗じて、兄のドミートリーを大公位から追い払った弟のアンドレイは、1281年に新大公として即位した。ドミートリーはしばらくしてペレヤスラヴリ-ザレスキーに戻ると、砦や町を徹底的に強化し、軍隊を召集した。アンドレイは兄が準備を整えるのを待つつもりはなかった。1282年、アンドレイはキプチャク汗国に出発し、ドミートリーが汗の意志に服従するつもりがないこと、汗に貢税を払うつもりがないことを報告した。そうこうする内に、1283年、ペレヤスラヴリ-ザレスキーに向かって、ノヴゴロド、モスクワ公、トヴェーリ公の連合軍が進軍した。彼らは直接ドミートリーに敵対していたわけではなかったが、タタール人が自分たちの土地を破壊するのを未然に防ぐために、アンドレイの方に好意を示しておく必要があったのである。ペレヤスラヴリ-ザレスキー公であるドミートリーは従士団と共に彼らに向かって出て行き、ドミトロフの町の近くで双方は講和条約を結んだ。しかし、アンドレイはこの時すでにキプチャク汗国からタタール人の部隊を引き連れて戻ってきており、このタタール人の部隊はペレヤスラヴリ-ザレスキーへ到着する手前で、お決まりの如く、スーズダリの地を蹂躙した。
ドミトロフの町の近くでモスクワ公やトヴェーリ公ら諸公と講和条約を結んだドミートリーであったが、それは同盟を結んだのではなかった。アンドレイが連れてきたタタール人に抵抗するには、ドミートリーの力は明らかに足りなかった。そこで一計を案じ、汗国内の権力争いを引き起こして有利な立場に立とうとしたドミートリーは、キプチャク汗国と敵対しているノガイ人――黒海の岸辺近くにある南ルーシのステップにいた遊牧民――のもとへ向かって援助を求めた。ノガイ汗は以前はキプチャク汗国の司令官であったが、その後自分の部隊を引き連れてそこから袂を分かち、キプチャク汗国の西方を自分自身の領地とし、ドナウ川下流からドニエストル川までの領土の最高権力者となった。この彼をキプチャク汗国の汗さえ少し恐れていた。ノガイ汗は、ルーシの政治舞台に自ら躍り出る機会を逃しはしなかった。ドミートリーはすぐに彼からウラジーミル大公国の勅書を手に入れ、この年の1283年にはルーシへ戻ると、アンドレイは抵抗することなく、彼にウラジーミルを譲り、その翌年にはノヴゴロドを譲った。最初に大公位に即位した時も今回も、ドミートリーはウラジーミルの地には必要な時にちょっと立ち寄るだけであった。彼が通常家族と共に居住していたのは、ペレヤスラヴリ-ザレスキーであった。
弟アンドレイは大公国を取り戻すことを決して諦めていなかった。その後、戦闘の火ぶたは再び切って落とされ、ルーシの地は荒廃の道をさらにたどっていくのである。
次回は「タタール軍によるルーシの地の蹂躙」。乞うご期待!!
(大山・川西)
HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第106回
|