◆ 第104回 ドミートリー一世(統治1276-1281年、1283-1293年)の生い立ち
ドミートリー(ネフスキーの息子)からノヴゴロド公位を力ずくで奪い取った大公ヴァシーリーが、1276年の12月に他界した。彼は後継者を残さず、次の大公位には一族の年長制の権利に従って、ヤロスラフ二世の孫の中の最年長者となるドミートリーが就いた。
1259年に、ドミートリーの父親の大公アレクサンドル・ネフスキーがタタールの調査役人と共にノヴゴロドで戸口調査を行った際、まだ十歳に満たなかった息子のドミートリーを自分の信頼する貴族に補佐させて、彼をノヴゴロド公として統治させるために当地へ残していった。その後の出来事から判断して、ノヴゴロドの人々はドミートリーの側近貴族と意見が合わず、それゆえにドミートリーとも良い関係を築くことができなかった――「何となれば、公はまだ羊よりも弱い」。その後1263年に父親のネフスキーが亡くなったが、ノヴゴロドの住民はその翌年、ドミートリーを側近の貴族らと共に追放し、ドミートリーの叔父で新大公のヤロスラフ三世をノヴゴロド公位に招いた。
側近の貴族たちは幼い公をペレヤスラヴリ-ザレスキーに連れて行った。そこは、彼の父親の世襲領地であり、相続財産としてドミートリーの手に移っていた。1272年に大公ヤロスラフ三世が逝去した後、先述のヴァシーリーがウラジーミル大公位に就くと、ヴァシーリーはすぐに、ノヴゴロド公位を受ける資格が自らにあると主張する使者を、ノヴゴロドへ差し向けた。しかし、ドミートリーもまったく同じことをその少し前に行っていた。その結果、ドミートリーの方がノヴゴロド公位に招かれることとなり、自尊心が傷つけられた大公ヴァシーリーは、至るところでノヴゴロドの商人を逮捕し、ノヴゴロドの郷を攻撃し始めた(詳細は103回を参照のこと)。ドミートリーは自発的にノヴゴロドにおける公としての統治を断念せざるをえず、一方、ノヴゴロドの人々は大公ヴァシーリーと和解することとなった。
1276年に大公ヴァシーリーが死去した後に、ドミートリーが大公国の勅書を求めるために汗国を訪問した事実は諸史料には語られていないが、ヴァシーリーの死後ウラジーミル大公位に就いたのはまさに彼であり、1281年までタタールとのどのような衝突もなかった。1277年、ノヴゴロドの人々はドミートリーを自分たちの公として再び招き、翌年の冬にはすでに彼らは一緒にカレリアの地を首尾よく攻撃した。その後数年間、ウラジーミル大公国では平穏な日々が続いた。
次回は「ドミートリーとその弟アンドレイとの衝突」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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