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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第102回 ヤロスラフ三世の弟ヴァシーリー(統治1272-1276年)とノヴゴロド

ヴァシーリー  タタールの侵略後に大公位に就いたヤロスラフ二世の七男であるヴァシーリーは、若い時には自己の力量を特に何も発揮しなかった。1270年に至るまで、年代記作者らは彼のことについてたった三度――誕生、父親の死、結婚――しか言及していない。父親のヤロスラフ二世が死去した後に大公位に就いたのは、ヤロスラフ二世の弟であるスヴャトスラフ三世であった。スヴャトスラフ三世は統治し始めた1246年に、甥たちに町を分配した。その時にヴァシーリーは分領地としてコストロマを受け取ったが、彼がまだ幼かった頃は、彼に代わって、スヴャトスラフ三世の信任を得た貴族らが統治していた。1266年、このコストロマでヴァシーリーは結婚したが、彼の妻についても、また彼らの子供についても明らかにされていない。彼は後にウラジーミル大公位に就任した後も、この地で暮らし続けた。

 1248年にスヴャトスラフ三世がウラジーミル大公位から追い払われると、同年に彼の甥であるアンドレイ二世が大公位に即位し、続いて1252年からアンドレイ二世の兄であるアレクサンドル・ネフスキーが大公となった。ネフスキーの死後、1264年から彼の弟であるヤロスラフ三世が大公として統治し始めた。

現在のコストロマ  1270年、ノヴゴロドの人々は、ヴァシーリーの兄にあたる大公ヤロスラフ三世に対して反乱を起こした。ヤロスラフ三世はノヴゴロドの人々の招きに応じて、ウラジーミルの地に加え、ノヴゴロドの地も統治していた。だが、ヤロスラフ三世はノヴゴロドの人々と交わした契約をないがしろにして勝手な振舞いをするようになり、そんな大公の行為をノヴゴロドの人々は許しはしなかった。この紛争にヴァシーリーは関わることに決めたが、兄ヤロスラフ三世の側には立たなかった。というのも、ヤロスラフ三世は多々横暴な振舞いをしたが、その中でもヴァシーリーの分領地であるコストロマでノヴゴロドの商人らを逮捕してしまう事件があり、ヴァシーリーにとっては不愉快以外の何物でもなかったからである。さらに他にも理由があった。それは、トヴェーリ公でもあるヤロスラフ三世がノヴゴロドを支配下に置いた場合、トヴェーリが強くなることは避けられず、そうなると近い将来に、ヤロスラフ三世が近くにあるコストロマを狙うことは十分にあり得たからである。それらに加えて、ノヴゴロドの人々に好意を示しておくことは無意味なことではなかった。なぜならば、ノヴゴロドの人々が勝利した暁には、ノヴゴロドを支援したヴァシーリーがその公位に招かれる可能性もあり得たからである。

 ヴァシーリーはメング・チムル汗を説得して、ヤロスラフ三世を援助するためにノヴゴロドへ進軍していたタタール軍を呼び戻させた。その後、ノヴゴロドとヤロスラフ三世は和解し、ノヴゴロドの人々は再度ヤロスラフ三世をその公位に招いた。結局のところ、ヴァシーリーはノヴゴロド公位には就くことができなかった。

 次回は「ノヴゴロド公位を狙うヴァシーリー」。乞うご期待!!

(大山・川西)

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