◆ 第103回 ノヴゴロド公位を狙うヴァシーリー
ノヴゴロド公位に返り咲いたヤロスラフ三世と弟のヴァシーリーは、1271年に甥であるペレヤスラヴリ-ザレスキーのドミートリー(ネフスキーの息子)を連れて汗国を訪れた。この汗国からの帰国途中の1272年に、大公ヤロスラフ三世が亡くなるが、諸史料はその原因について何も触れていない。大公ヤロスラフ三世の死後、ウラジーミル大公国の統治は、一族の最年長者となったヴァシーリーが自動的に継いだ。しかしながら、彼が大公国統治の勅書を受け取る際の汗国との交渉については何も知られていない。とはいえ、ヴァシーリーの全統治期間、タタール人とのどんな紛争もなかった。
大公になったヴァシーリーは、何が何でもノヴゴロド公位に就こうと決意していた。真っ先に彼が行ったことは、自分の使者をノヴゴロドへ派遣することだった。それと同じことをほんの少し前に、彼の甥のドミートリーが行っていた。ノヴゴロドの人々はそれまでウラジーミル大公を自らの統治者として招いていたが、その伝統を捨て、今回はドミートリーの方を選んだ。ノヴゴロドの地で記憶されていたドミートリーの父親の偉大な業績があったからかもしれない。1272年10月9日、ドミートリーはノヴゴロド公位に就いた。
ヴァシーリーはこのような事態に言うまでもなく不満であり、彼の大公としての自尊心は傷つけられた。翌1273年、大公は自分の軍隊の一部をノヴゴロドの郷を破壊するために送り出し、自らは主要な従士団とウラジーミルに駐留するタタール人部隊を引き連れて、ペレヤスラヴリ-ザレスキーとトルジョークに向かって進軍した。大公の側にタタール人がついたことを知ったトヴェーリ公スヴャトスラフ(故ヤロスラフ三世の息子)は、ヴァシーリーと行動を同じくし、ヴォログ、ベジェツク、ヴォログダを征服した。トヴェーリは紛争地にあまりに近く位置していたため、スヴャトスラフは不本意ながらどちらに付くかを選ばなければならなかったのである。大公ヴァシーリーや彼の軍司令官、またスヴャトスラフは、多くの戦利品と捕虜を手にした。ノヴゴロドの商人たちは至るところで捕まえら勾留された。ノヴゴロドと他の地との交易は途絶え、ノヴゴロドの町では穀物の価格が住民には手も届かないような額にまで沸騰した。
その間、ドミートリーはノヴゴロドの人々と共にトヴェーリへ進軍したが、トルジョークまでしかたどり着けなかった。あまりにも気の滅入るような知らせが、使者たちによってもたらされたからである。ノヴゴロドの地には飢餓が迫っており、進軍中に召集された民会では、大公らと戦うには明らかに軍事力不足であることが認められた。こうしてドミートリーは自発的にノヴゴロド公位を放棄し、自領であるペレヤスラヴリ-ザレスキーへ戻った。大公ヴァシーリーのもとにはすぐに使者が送られ、1274年、彼は念願のノヴゴロド公位を手に入れた。
二年後の1276年12月、汗国から帰国した後に、大公ヴァシーリーはコストロマで死去し、聖フェオドル教会に埋葬された。
次回は「ドミートリー一世の生い立ち」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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