◆ 第105回 ドミートリーとその弟アンドレイとの衝突
平穏な日々は長くは続かなかった。1281年、大公ドミートリーとノヴゴロドの人々の間で衝突が起こった。事は大規模な軍事行動までには至らなかったが、大公は幾つかのノヴゴロドの郷を示威的に破壊し、その後、冬に双方は講和条約を結んだ。実のところ、ノヴゴロドの人々がドミートリーに対して腹立たしく思っていた理由は、ドミートリーが軍事力を示威するためばかりではなかった。当時、ノヴゴロド公位に招かれた公には、ノヴゴロドの地で分領地を有することが許されなかったばかりでなく、大きな建物を所有することさえ許可されていなかった。ところが、ドミートリーは何らかの方法でノヴゴロドのコポリエの地に軍事上の拠点となる石の要塞を築いてしまったのである。
ドミートリーの弟であるアンドレイはこの衝突を利用することに決めた。ドミートリーがノヴゴロドの人々といざこざを起こしている間にアンドレイは汗国へ出立し、高価な贈り物によって汗と汗の高官の好意を獲得し、ウラジーミル大公国の勅書を手に入れた。しかしながら、この事の顛末は高価な贈り物によってのみ引き起こされたのではなかった。その頃キプチャク汗国では新しい統治者――トゥダ・モンケ汗が即位していたのであるが、大公ドミートリーはそれまでの慣習を破って、新たな汗に恭順の意を示すために自ら赴くことなく、ただ使節団を派遣して汗に贈り物を贈っただけであったのである。
弟のアンドレイがまだ汗国に滞在していた時に、すでにペレヤスラヴリ-ザレスキーではドミートリーが軍隊を召集していた。アンドレイが勅書を受け取ったにもかかわらず、ドミートリーは自分の大公国統治に対する法的権利を譲り渡すつもりはなかった。ドミートリーの不穏な動きは汗国まで達し、不服従者を罰するために、汗は新大公アンドレイにカヴガディとアルチェダイの大規模な軍隊を与えた。さらにアンドレイは、ムーロムで三人のルーシ諸公と彼らの従士団を味方に付けることに成功し、強大な連合軍を率いてペレヤスラヴリ-ザレスキーに向かって進軍した。双方の軍事力の差は明らかであった。ペレヤスラヴリ-ザレスキーの陥落を待たずに、ドミートリーはノヴゴロドに逃走した。彼は、その時まだ完成していなかったが、すでに十分に堅固であったコポリエの要塞に身を潜めようとしたのである。だが、まさにこの要塞の存在こそがノヴゴロドの人々を憤慨させていた。彼らはイリメニ湖の近くで公を遮り、彼の二人の娘と、側近の貴族たちとその妻らを人質に取ると、彼らを解放する条件として、ドミートリーの従士団をコポリエから立ち去らせるよう求めた。ドミートリーは家族や側近貴族らと共にスウェーデンへ去ったが、タタールの部隊がスーズダリ付近の地から退去した後、ペレヤスラヴリ-ザレスキーへ戻ってきた。
ドミートリーの妻の名前は年代記に記されていない。彼の三人の息子の名―イヴァン、アレクサンドル、年少のイヴァン―と、三人の娘の内一人の名―マリヤ―のみが知られている。
次回は「アンドレイの秘めたる野心」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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