シベリア追憶の旅(2)
ハバロフスク駅
ハバロフスク駅では今、地下道が改装中であるという。いつ完成するのであろうか。地下道の改装だけであろうか、プラットホームに屋根はつけないのだろうか、エレベーターやエスカレーターは設置されるのであろうか。今、あの時ガイドに詳しく聞いておけば良かったと思う。
~往 路~
朝7時半ごろバスで駅に到着する。バスは駅舎までは近づけず、離れたところに停車した。駅の入り口まで荷物を運ばなければならない。旅行社にポーターを頼んであったので、自分たちが荷物を運ぶ必要はなかったが、そのポーターさんたちが気の毒であった。台車が使えないのだ。バスから駅の階段下まで一つ一つの荷物を手で運ぶしかない。なぜ台車が使えないのか不思議に思いながら荷物番をしている私に駅のポーターが台車を引きながら近づいて来た。売り込みである。そうか、駅のポーター以外は台車が使えないのは一種の業務独占なのかと勘ぐってしまった。
旅行社のポーターさんたちは階段の下に一度荷物を集めた後、今度はその重い荷物を抱えながら階段を何回も昇り降りしなければならなかった。改装中なので地下通路は使えず、線路上の高い通路越しに荷物をホームに運ばなければならないのである。彼らは一度階段の上に荷物を集めて、そのあとでホームに降ろすと言う。
ポーターがどんな風に荷物を運んでいるのか階段の登り口に入り、下から覗き上げていたら、入り口の真ん中にいた赤いチョッキの駅員風のおばさんに怒鳴られた。居丈高に怒鳴られてこちらも言い返したくなったが、相手にしないのが得策と思い直し、入り口傍に置いてあった荷物の所へ戻る。荷物番をしながら階段に向かう人々を見ていると、屈強な男性もいるが、子供たちや年老いた男女もいてさまざまである。大人たちは誰もが大きな荷物を抱えて気難しい顔をしている。それは以前どこでも見かけた群衆の風景と同じであり、その憂鬱そうな雰囲気は何も変わっていなかった。
最後に自分の手荷物を持って階段に向かう。あの駅員風の赤いチョッキのおばさんはすでにいなかった。人込み整理の駅員さんではなかったようだ。あの居丈高な態度は何だったのだろうか。あの人は階段を下りてきただけの乗客で、何かの理由で芯から苛立っていて、誰かに八つ当たりしたかったのかも知れない。そんな時、暢気な顔をして面白そうに階段を覗いている私を見て腹が立ったのであろう。この階段ならそのようなことが起きても不思議ではないと上りながら納得する。
その階段は実に高く、二か所の踊り場で折り返して上らなければならなかった。エレベーターもエスカレーターも無い。ひざが痛い私には無慈悲に思えた階段であった。悔しいけど手すりに摑まってゆっくりと上るしかない。今の私には大きなスーツケースを抱えてこの階段を上がるなどできないとポーターさんに感謝する。そして、時代は変わっても年寄りや弱者に配慮が無いところはまだ変わっていないことを実感する。
駅のホームは半世紀前に降り立った時と同じく低かった。車両に階段が取り付けられているのでホームを高くする必要はないのだろう。しかし、その車両の階段も高く、荷物を運び込むとなるとかなり大変に思えた。キャスター付きのスーツケースを列車からスムーズに降ろせる日本が懐かしい。ただ、力持ちのロシア人にはこれしきのことは問題ないのかもしれないとも思う。むしろ、私達日本人が便利さに甘やかされて身体能力を弱めていることを心配すべきなのかも知れないと。しかしそれでもやはり、弱者も含めて多様な人たちが集まる駅なのだからもっと配慮が欲しいと私はこの駅に願った。
今行われている地下道の改装はどのようになされるのであろうか。見た目よりも利用者に優しい配慮のある、エスカレーターもエレベーターもある地下道に改装して欲しい。ホームも高くして車両への出入りを楽にして欲しいし、せめて屋根付きで多くのベンチがあるプラットホームであって欲しいと願った。
~帰 路~
そう、ホームに屋根さえあれば、あの帰路のハバロフスク駅での私たちの不運にはまだしも救いがあったはず。あそこまでずぶぬれにならなくて済んだはず。団員の人たちが風邪をひかないで済んだはずなのだ。
今回の旅は天気にも恵まれ、団全体にとっても、私個人にとっても実に好調に進んでいた。私はハバロフスク駅に近づく帰路の列車の中で、すべてが順調に終わりつつあると安らかな気分でいた。このまま何事もなく上首尾に終わる気がしていた。だがそうは自然が許さなかった。
ハバロフスク駅に近づくまでは、降ったり止んだりしていた小雨が駅に降り立つ直前に激しい豪雨に様変わりした。停車時間が30分もあるとは言え、豪雨が止むまで待つことはできない。スーツケースや段ボール箱の荷物を土砂降りのホームに降ろすしかすべはなかった。団員の皆さんも、ポーターさんたちも、荷物も、折りたたみ傘をさしていた私でさえもすぐにびしょ濡れになった。荷物を降ろしたものの、この後どうしたら良いのか。離れたところになるあの高い階段を何回にも分けて昇り降りするのか。私は、呆然とする思いで、濡れて形が崩れ行く段ボール箱を眺めていた。その時、ホームの反対側の線路にいた列車が出発して、線路越しに駅舎が見えた。誰かの指令があったわけではない。誰もが直ぐに必死になってその線路越しに駅舎へと荷物を運び始めていた。私も、ホームが低くて本当に良かったと思いながら、自分で運べるものを運んだ。もしホームが高かったら、線路越しに荷物を運ぶなど私にはできなかったであろう。10人近い乗客が線路越しに往復して荷物を運んでいるのだ。駅員が気付かないはずはない。でも誰も咎めなかった。日本では、乗客が線路越しに荷物を何回も運ぶなど、安全面の観点から駅側は絶対に許さず、大問題になるであろう。もしかしたら、ハバロフスク駅でも安全規則でこのような行為は禁止されているかもしれない。しかし、あまりにも厳しい条件下では規則のことなど言っていられない。大目に見る慣習もまたここにはあるのだろう。このようなロシア的おおらかさを私はいつもお面白いと思い、また大いに気に入っている。
(野口)
香港をお手本に「1国2制度」、50年間税無料、オフィス料無料
外務省主催の「中央アジア+日本」対話・第10回東京対話が8月31日、霞が関の外務省北庁舎7階国際会議室で開催されました。また今年は、ソ連邦から独立した中央アジア5カ国(タジキスタン・カザフスタン・キルギス・トルクメニスタン・ウズベキスタン)との外交関係樹立25周年の記念年でもあります。
対話の最初のゲストスピーカーとして、同対話が始まった2004年当時の外相の川口順子氏が当時の訪問の思い出などを語り、続いてアメリカ外交政策評議会中央アジア・コーカサス研究所長のフレデリック・スター氏が「かつてのシルクロードを管理していたのは、中国人ではなく中央アジア人のソグド人であり、安禄山はソグドとのハーフだった」など中央アジア地域の重要性を語りました。
中央アジア5か国からの報告で、カザフの代表は、首都アスタナを香港のような“1国2制度”の金融都市にして、同市においては「50年間税金無料」「オフィス料無料」「30日間はノービザ」にする計画だと報告しました。各国とも中央アジアの地域安定について、懸念問題としてアフガニスタンを挙げ、地域として同国の国民所得の向上に協力していくことが求められているとしました。
討論に移り、旅行業界大手のHISの関連会社である澤田ホールディングス取締役の小宮健一郎氏は「今年、キルギスのキルギスコメス銀行を買収(株60%取得)した。日本からの進出企業に財政支援や地元の有望企業を紹介していきたい」、また、投資先としてキルギスを選んだ理由は「キルギスは資源は少ないが、教育レベルが高い。また、東南アジアは投入資金額が大きすぎる。中央アジア諸国は今買い時だ」と述べました。
最後に、カザフ代表は日本側の姿勢について「アメリカは中央アジアから手を引こうとしている。そこに中国が乗り出してきていて影響力を強めおり、ロシアの経済的影響力は弱っている。地元の中には中国嫌いがあり、日本への期待は高まっているが、日本側はそれに応えていない」と厳しい注文が出されました。
神奈川県日本ユーラシア協会からは、長谷川さんと木佐森が出席しました。
(木佐森)
書評「園芸家12カ月」
カレル・チャペック著 小松太郎訳 中公文庫
園芸家の草花への思いは恋愛に似ている。相手の様子に一喜一憂し、その様には限度というものを知らない。本書では、草木に恋している園芸家の姿が見事に描かれている。花へのあこがれは冬の窓に張り付く氷の花に始まる。それをみつつの一年。春になったらこんな種を蒔こうとか。じっと想像にまかせるのだ。いざ、春になると園芸家は急に忙しくなる。土が、ふかふかにならないとか、アルカリがこの花には少ないだろうかと花の芽が出るまでそわそわする。これはもう恋愛の初期症状である。チェコスロバキアを代表する作家であり新聞記者であった、カレル・チャぺックはそういう点で無類の大恋愛家であった。そして画家であった兄のヨゼフ・チャぺックはそんな弟のために何枚もの愉快な挿絵をこの絵のために提供した。彼の人生に必要なものは太陽と、ほどよい水ときれいな緑。そのためにもどんなことでも厭わないというわけである。そして花が咲くとちょっと講釈を述べたくなる。もうこれで彼は首からすっぽり恋愛にはまっている。きんぽうげの美しさを語らせたらいつまでも終わらず、水の心配までし始めるのである。散りばめられているジョークは心温まり、くすりとされているものである。いたって上品な程度良いスキップ・ジョークである。カレル・チャぺックといえば「ロボット」(何とこの造語を作ったのは先見の明があるかれである)、ノーベル賞対象作品となった「山椒魚戦争」などの本を別荘の緑に囲まれ、書きつつヒトラーへの鋭い政治批判を行ったことで知られている。ノーベル賞を辞退し、鋭角な理論を社説で展開していた人が、嵐の日、大好きな花の手入れから風邪をひき、肺炎をおこし家族と花々に見守られて死んだというのは何か少しだけ、象徴的と思うのは私だけであろうか。ユダヤ系であったためとその鋭いナチスへの批判が反感を買い、そのあと親衛隊は彼の別荘に乗り込んだが、もはや天空の人になっていた。文庫本サイズ。100%、きっとあなたを楽しくさせる。
(中出)
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(機関紙編集部)