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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第138回 父親、兄と同じ道をたどった悲劇の子アレクサンドル

 アレクサンドルはトヴェーリへ帰還したが、大公イヴァンがそのことを喜ぶはずはなかった。というのは、イヴァンは分領公たちが有する世襲領地においてわが物顔で尊大に振舞った結果、分領諸公の反感を買っており、アレクサンドルのトヴェーリ帰還によって、トヴェーリ公国にモスクワの反対勢が結集する恐れがあったからである。

 1338年の前半、トヴェーリ公アレクサンドルは、何らかの用件で息子のフョードルを汗国に送り出した。このことを知った大公イヴァンは急いで後を追って出発した。何人かの年代記作者によれば、イヴァンと彼に同行した貴族らはアレクサンドルを陥れようとし、汗国でアレクサンドルの非を述べ立て、アレクサンドルと幾人かのルーシ諸公を裁きの場に呼び出すべきだとウズベク汗へ進言した。汗は激怒したが、激怒の理由はイヴァンらによる告発の故ばかりではなかった。その当時、汗国とリトアニア大公国との間では戦争が勃発しており、アレクサンドルがプスコフで六年もの間リトアニア大公ゲディミンの家臣であった事実が、ウズベク汗を憤慨させていたのであろう。アレクサンドルがトヴェーリから逃亡することを恐れて、ウズベク汗は「怒りと残酷さをもってではなく、静かに穏やかに」彼を自らのもとに呼び出すよう命令した。息子のフョードルは汗国から解放されず、汗が激怒していることを父親に知らせる術もなかった。

 一方、トヴェーリのアレクサンドルには選択の余地がなかった。ウズベク汗の呼び出しに従わなければ、再び逃亡せざるを得ず、汗国に留め置かれている息子が無残に殺害される可能性も、トヴェーリへタタールの新たな懲罰部隊が来襲する可能性も否定できなかった。1339年の夏の末、アレクサンドルは汗国へ向けて出立した。汗国でアレクサンドルは息子と再会し、贈り物を配り、静かに探りを入れ始めた。「褒賞が与えられる」と言う者も、「死刑に処される」と言う者もおり、諸々の情報は錯綜していた。不安な気持ちを抱きながら一ヶ月が過ぎ去った。10月26日、三日後に処刑されることがアレクサンドルに告げられた。10月29日、アレクサンドルは早課(朝の礼拝)を済まし、告解(懺悔)を行い、聖体機密を受け、遺産に関する指示をなした。アレクサンドルには最後まで恩赦への期待があったのかもしれない。彼は処刑前の数時間、汗の本陣の敷地で自由に馬を乗り回し、タタールの高官に自分の運命について聞き出したり、汗の妃のもとへ自分の召使を行かせたりしていた。死刑執行人が近づいて来ていることを知ると、アレクサンドルは息子や貴族らに別れを告げ、天幕から出て行った。彼の衣服は剥ぎ取られ、手は縛られ、息子フョードルと一緒に汗の高官であるトヴルビヤのもとへ連れて行かれた。トヴルビヤは二人を処刑するよう命じた。アレクサンドルと息子フョードルは殺され、その後彼らの首は切り落とされ、体は各部分に切断された。

 貴族たちは、アレクサンドルとフョードルの遺体をトヴェーリに運び、救世主変容教会にて、汗国で同じく殺された父親と兄ミハイルの隣りに彼らを安置した。

 次回は「イヴァン一世(カリター)の青年期」。乞うご期待!!

写真:現在のトヴェーリ vse-strani-mira.ru/art-tags/

(文:大山・川西)

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