◆ 第137回 ウズベク汗の赦しを得たアレクサンドル
アレクサンドルが一年半もの間身を寄せていたリトアニア大公ゲジミンは、和戦両様の構えでドイツ騎士修道会と対等にわたりあい、強力な国家を作ってリトアニアの繁栄期を導いた人物である。アレクサンドルにとっては遠い親戚であったが、ルーシの地が戦争の災禍から少しずつ落ち着きを取り戻すと、アレクサンドルはリトアニアを去ってプスコフへ戻った。追放された公としての運命が、彼には耐え難いものとなっていた。ルーシに分領地を持たない彼の子供たちもこのままいけば公の一族から離れることになり、子供たちの将来のこともアレクサンドルには心配だった。
1335年にアレクサンドルは、ウズベク汗の赦免と哀れみに望みがあるかどうかを探るために、息子のフョードルを汗国へ送り出した。一年後、息子は汗国の使者アヴドゥルと共に戻り、アヴドゥルは「赦免の望みはあり、ウズベク汗はアレクサンドルを待っている」と伝えた。危険はもちろんあったが、他国でこれ以上暮らすことはアレクサンドルには耐えられなかった。彼は汗国へ出立した。汗国ではすべてがこれ以上望めないくらいにうまく物事が進んだ。アレクサンドルが長年慎み深くあったことに満足したウズベク汗は、彼を許したばかりでなく、トヴェーリ公国の勅書をも与えた。おそらくアレクサンドルは、贈り物も用意せずに手ぶらで豊かなプスコフから来るようなことはしなかったのだろう。それに加え、ウズベク汗は、個々のルーシ諸公が極度に強くなることを警戒していたのであり、アレクサンドルは大公イヴァンの勢力にちょうど拮抗する者であった。1337年の末、アレクサンドルは汗国を後にしトヴェーリへ向かった。アレクサンドル不在中にずっとトヴェーリを治めていた弟のコンスタンチンは、いかなる抵抗をすることもなく兄アレクサンドルに公位を譲り渡し、アレクサンドルはプスコフから家族を呼び戻した。
トヴェーリとモスクワとの対立はすぐに始まった。年代記作者らはその発端を伝えていないが、トヴェーリ公と大公が合意を得られなかったので、双方の間に「和平が結ばれなかった」ことに言及している。もしかしたら、トヴェーリ公アレクサンドルは、直接汗国に貢税を支払い、汗国とコンタクトを取り続けることを望んでいたのかもしれないが、大公がいる以上、それは許されないことであった。あるいは、アレクサンドルがウズベク汗の好意とトヴェーリ公国の力とを過信し、何らかの方法でウラジーミル大公位を取り戻そうとしていたのかもしれない。トヴェーリの貴族の一部がモスクワの大公のもとへ去っていったという事実が、間接的にそのような推測を裏づけるものとなっている。とはいえ、アレクサンドルがプスコフから連れてきた自身の側近が、居慣れた官吏の職場から貴族の一部を追い出したという見方もあり得る。
次回は「父親、兄と同じ道をたどった悲劇の子アレクサンドル」。乞うご期待!!
リューリック朝系図
(文:大山・川西)
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