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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第136回 プスコフに逃れたアレクサンドル

 己の最大のライバルである大公アレクサンドル(トヴェーリ公)を引きずり下ろすチャンスを、モスクワ公イヴァンは逃しはしなかった。イヴァン率いる連合軍は、「トヴェーリ、カシン、そのほかのトヴェーリ公国の町を占領し、さらに集落や領地を焼き、人々を捕虜にした」。その数年前からトヴェーリ公国の強化ははかどっておらず、防衛が成功するチャンスは万に一つもなかったのである。この結果、トヴェーリ公国は完全に破壊され、人影一つ見られず、数十年の間荒廃する有様となった。もはや父親のミハイル二世時代の栄華は、その面影も見出せない地となった。連合軍がトヴェーリへ到達する前に、アレクサンドルの弟たちはその地を去り、年若いコンスタンチンとヴァシーリーは母親と一緒にラドガへ向かった。その後タタールが退却した後に、コンスタンチンはトヴェーリ公国を治める勅書を汗国で受け取った。一方、アレクサンドルはノヴゴロドへ向かったが、市民はタタール人の報復を恐れて彼を受け入れず、アレクサンドルはプスコフへ立ち去った。プスコフの地で、住民たちは彼を地元の公として迎えた。

 トヴェーリの地を滅ぼしてすぐに、ウズベク汗は大公国の勅書をモスクワ公イヴァンに与えた(1328年)。そして彼と他のルーシ諸公に、「アレクサンドル公を見つけ出し、汗国へ護送せよ」との命令が下された。

 しばらくすると、アレクサンドルが居住していたプスコフには、ウズベク汗からの命令の遂行を余儀なくさせられたルーシ諸公の急使が到着し始めた。急使は書簡を携えてきたが、それはアレクサンドルに汗のもとへ謝罪に行くよう勧めるものであった。幾つかの史料によれば、アレクサンドルは汗のもとに赴こうと心が傾いたようだったが、プスコフの人々が彼を留めた。とはいえ、汗の命令を遂行しなければ自分の領地が壊滅の危機にさらされるルーシ諸公は、アレクサンドルを力ずくで「捕える」しかなかった。1329年4月、ノヴゴロドからプスコフに向けて、すでにノヴゴロドの公位に就いていた新大公イヴァンを長とする連合軍が出動した。別のグループにはアレクサンドルの弟たちもいた。大公イヴァンは、プスコフと戦うしかるべき理由がなかったので、府主教フェオグノストに、汗の意志への不服従ゆえにアレクサンドルと全プスコフに呪詛をかけ、教会から破門するよう説得した。この時代、精神的に働きかけるこのような方法は、民衆にとってタタールの襲来よりも恐ろしかったようである。アレクサンドルは、自分を親切に受け入れてくれたプスコフの人々が被害をこうむるのを望まなかったので、彼らに妻と子供の世話を頼むと、自分の亡くなった兄ドミートリー二世の妻の父親であるリトアニアの大公ゲジミンのところへ去っていった。

 次回は「ウズベク汗の赦しを得たアレクサンドル」。乞うご期待!!

現在のプスコフ
http://tourweek.ru/user/1944/albums/111360/282473/ より

(文:大山・川西)

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