特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第135回 トヴェーリ民衆蜂起

 1327年夏、生神女就寝祭近くになると、いつも通りトヴェーリの町中には郊外から多くの民衆が集まっていた。祭日の8月15日、ドゥトコというトヴェーリに住む輔祭がヴォルガ川近くの水飲み場で馬に水を吞ませていたところ、そこにたまたま居合わせたタタール兵らがその馬を奪った。輔祭は助けを求めて叫び声を上げた。民衆とタタール兵らの間で乱闘が始まり、タタール兵が無事に生き残るためには武器を取らねばならないほどとなった。聖スパス教会で鐘が打ち鳴らされ民会が召集されると、すぐさま人々が団結して行動が取られ、暴動へと発展していった。町全体が決死の覚悟でタタール人を打ち負かし始めた。彼らは雄叫びをあげ、タタール兵を手当たり次第に殺していったのである。

 従者を従えたチョル汗は公の居室に逃れようとしたが、館は四方八方から火がつけられ、誰もそこから逃れることはできなかった。民衆の憤怒は最後の一人を殺害するまで静まることはなかった。助かったのは、郊外の草原で馬を放牧していたタタール人の牧童らだけであった。彼らはすばやくモスクワに逃れ、そこから汗国へ逃げ帰り、ウズベク汗に対して、すべてに責任があるのは大公アレクサンドルである、と報告した。大公アレクサンドルの暴動への関与については、諸史料は何も伝えていない。ただ幾つかの史料には、大公が人々の憤怒を抑えようと努めたと指摘されているだけである。

 アレクサンドルは窮地に立たされた。汗の心を和らげるために汗国へ出立すべきかもしれない、あるいはそうしなかったとしても、従妹のチョル汗を殺害したとなれば、汗国からの報復は避けられないだろう、、。アレクサンドルが大いに悩み苦しんだであろうことは容易に察することができる。

 汗国皇族がルーシの地で非業の最期を遂げたのならば、大規模な懲罰軍の来襲は避けられず、それは最悪の場合、トヴェーリ公国だけでなくルーシの地全体が蹂躙、壊滅されることを意味していた。この未曽有の危機に対して、モスクワ公イヴァン(ユーリー三世の弟)はより機敏に動いた。その一年前に大公への道をアレクサンドルによって遮られていた彼は、すぐさま汗国に駆けつけ、ウズベク汗の怒りがトヴェーリ公国一国に集中するよう画策した。彼は、トヴェーリ公国への道先案内を自ら申し出たのかもしれない。

 1327年から1328年にかけての冬には、モスクワ、スーズダリ軍と五万のタタールの軍隊がトヴェーリ公国へ向けて進軍した。討伐隊の全指揮を執ったのは、他ならぬイヴァンであった。彼は最大の危機を最大のチャンスに変え、自身の最たるライバルに止めを刺したのである。

 次回は「プスコフに逃れたアレクサンドル」。乞うご期待!!

トヴェーリ民衆蜂起 (『絵入り年代記集成』16世紀)
http://dic.academic.ru/dic.nsf/ruwiki/1875988 より

(文:大山・川西)

HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第135回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
Общество «Япония-Евразия» префектуры Канагава (НКО)

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.