◆ 第134回 大公アレクサンドル誕生
1326年、ウズベク汗から勅書を受け取ったアレクサンドルはルーシへ戻り、ウラジーミルにて公位就任の儀式を済ませると、自分の世襲領地であるトヴェーリに腰を据えた。ノヴゴロドの人々もアレクサンドルを自分たちの公と認め、ノヴゴロド公として迎え入れた。
翌1327年の夏、ウズベク汗の従兄弟であるチョル汗が、汗の使者として、大勢の部隊と随員を従えてトヴェーリにやって来た。チョル汗とは、1293年にルーシに大壊滅をもたらしたトクタ汗の弟であるトデゲンの息子である(第107回参照)。これほど大がかりなチョル汗の訪問理由を年代記作者らは伝えていないが、大公アレクサンドルから大公国勅書料を取り立てるため、さらには汗に反抗的なトヴェーリ公国へ懲罰を下すために、チョル汗はやって来たと思われる。
その一年前、トヴェーリの人々は汗国に捕えられていた前大公ドミートリーのために多額の身代金と贈り物を汗国に送っており(第133回参照)、もう十分に貧しくなっていた。そのような状況の中、さらに追い打ちをかけるように勅書料を苛酷に徴集させられた住民らは、我慢の限界に達していた。
いうまでもなく、自らをルーシの地の支配者と自認するタタール人らは、取るに足りない汗国の下級役人や彼に同行するタタール兵ですら、彼らがどこへ何の目的で赴こうと住民たちへの略奪を半ば自分たちの義務とみなし、その道すがら無法な振る舞いを繰り返すのが常であった。ところが、今回現れたのは単なる役人ではなく、ウズベク汗自身の従兄弟であるチョル汗である。タタール人らの横暴さはとどまることなく、チョル汗は大公の館の一つをすぐに占拠すると、「暴力、略奪、殺人、罵りなどキリスト教徒に対して大いなる迫害をなした」。民衆は幾度も大公アレクサンドルに訴え、庇護を求めたが、ルーシの地でチョル汗を制御することはおよそ不可能なことであった。また、トヴェーリ側から汗国にチョル汗のことを訴えれば、ともすれば大公の不服従とみなされ、さらなる大軍が汗国から送り込まれる危険性があった。アレクサンドルにすれば、チョル汗が静まるまで耐え忍ぶよう人々を説得する以外、どうしようもなかった。
過酷な徴収、略奪に対する不満は、トヴェーリの人々の内でいつしかタタール人に対する激しい憤怒に変わり、それはほんの少しのきっかけで爆発する寸前にまで高まっていた。そして事件が起きたのである。
次回は「トヴェーリ民衆蜂起」。乞うご期待!!
挿絵:チョル汗
lusana.ru/presentation/22100 より
(文:大山・川西)
HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第134回
|