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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第133回 兄の後を継いだアレクサンドル(統治1326-1338年)

 1318年、汗の裁きを受けるために汗国へ旅立つにあたって、大公ミハイル二世は、自分の世襲領地のトヴェーリ公国を息子たちに分配した。彼の二番目の息子であるアレクサンドルが手にしたのは、ホルムとミクリンであった(これらの都市は彼の子孫の世襲領地として史料に記されている)。

 年代記の中でアレクサンドルについて触れられた最初の記述は、1319年の重要な契機に関連している。その当時、大公ミハイル二世の子らは父親の遺体をモスクワから世襲領地のトヴェーリへ移すために奔走していた。彼の父親を非業の死に導いた張本人である大公ユーリー三世は、遺体の移転を拒んでいたが、モスクワとトヴェーリの地とを和睦させるためにアレクサンドルを招いた。その結果、双方の地の和平が結ばれ、父親の遺体は故郷の地で永遠の安息を得ることとなった。

 1320年には、ミハイル二世の子である兄弟たちは、年少のヴァシーリーを除いて、皆結婚をしていたようである。トヴェーリやその他の年代記の中では、アレクサンドルの妻については何も伝えられていないが、彼らには息子フョードルと、マリヤとウリヤナという二人の娘がいたように推察される。

 父親ミハイル二世の死後、トヴェーリ大公となったのは、アレクサンドルの兄であるドミートリーであった。1322年、大公ユーリー三世に父親の死の復讐を果たす機会が兄弟らに訪れ、彼らはこのチャンスを逃さなかった。その年の秋、ウラジーミル大公国の勅書はドミートリーの手に移り、そして1325年11月21日、彼は汗国でユーリー三世を自らの手で殺害し、父親の復讐を成し遂げた。

 しかしながら、ドミートリーの勝手な振る舞いは汗をひどく怒らせることとなった。この時汗は、おそらくトヴェーリ公国全地を罰しようとしたのだろう。アレクサンドルは、タタールの大規模な軍隊を引き連れてトヴェーリへ向かわざるを得なかった。汗国で捕らえられている兄ドミートリーのために、アレクサンドルは多額のお金(身代金)をトヴェーリで集めなければならなかったのである。そしてその他にも、ドミートリーの処罰を少しでも軽くしてもらうために、アレクサンドルは汗と汗の高官たちに高価な贈り物をする必要があった。

 しかし、悲しいかな、首尾良く持ち込まれた身代金も高価な贈り物もドミートリーを救い得ず、1326年9月15日に彼は処刑された。ウズベク汗はウラジーミル大公国の勅書をドミートリーの弟であるアレクサンドルに委ねた。多くの者たちが予想に反して、その時汗国で大公国勅書を得るために奔走していた、ユーリー三世の弟イヴァンには渡さずに。

 次回は「大公アレクサンドル誕生」。乞うご期待!!

挿絵:ドミートリーの弟アレクサンドル
kremlion.ru/praviteli/alekstver/ より

(文:大山・川西)

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