現代ロシア映画鑑賞会「草原の実験」報告
8月5日(日)に神奈川県日本ユーラシア協会教室で、本年3回目の現代ロシア映画鑑賞会を開催し、5人が参加しました。
1949年8月にセミパラチンスク(旧カザフ共和国)で、ソ連初の核実験が行われ、以来多くの核実験被害者を出してきました。今回はそうした事実にインスピレーションを得たアレクサンドル・コット監督の寓話的作品「草原の実験」(2013)を鑑賞。
草原の広大さ、韓国・ロシアの混血女優、エレーナ・アンの凛とした美しさ、衝撃のラストシーンに目を奪われました。
観賞後、セミパラチンスクに行かれたことのある石井みどりさんから「セミパラチンスクの広大な実験跡地に立った時、ソ連時代に実験を止める事が出来たすごさを感じました。何か学べるのではと、期待をしていました。けれど、終章は核実験により総てを破壊。大きな宿題を戴きました」と感想を述べられました。
次回はセルゲイ・ボドロフ監督「ベアーズ・キス」(2003)を予定。
日程が決まり次第チラシなどでお知らせします。
(滝沢)
8・15企画『ひまわり』DVD鑑賞会
「8・15」に一番近い8/19の日曜日、参加者5人で『ひまわり』鑑賞会を行いました。
イタリヤ・フランス・旧ソ連の合作映画で、ロケ地は当時困難であった旧ソ連。もちろん、イタリヤでのロケもふんだんにありました。イタリヤでの海の青さの美しさは素晴らしいものでした。それと対照的に、戦闘の際のソ連の冬の苛酷さが強調されました。
マルチェロ・マストロヤンニ演ずる夫は、その東部戦線での戦いで落伍するのです。助けようとすれば、自分も一緒に倒れてしまうのです。肩を貸そうとする戦友に「置いてってくれ」と言い、雪の中に埋もれてしまいました。その夫を雪の中から救いだし、命を助けたのがソ連女性でした。ソフィア・ローレン演ずるイタリヤに残った妻は夫の戦死を信じずに、ソ連まで夫を探しに行くのです。やっと探し当てた時には、命を助けてくれた女性と結ばれ、可愛い子供までいたのです。傷心の帰国をした妻のところへ、夫は行きますが、妻も再婚していました。
愛し、愛されて結ばれた男女が戦争に引き裂かれる悲劇です。そして、その切ないメロディーは、映画音楽の最高傑作の一つです。紙面だけでお伝えできないのが残念。参加者の3人は未見だったので、「本当に悲しいこと」「自分だったらどうするだろう」「男の身勝手」などの感想が聞かれました。
(関戸)
サハリン旅行断片記
第1回 北辺の旧「日本」樺太・サハリンへの旅
2018年8月11日(土)~ 8月15日(水) 4泊5日
1. 合流の地、千歳での夕食
参加者6人揃ってホテルを出て外食。ぶらつくと参加者の角さんが、赤ちょうちんで「めし」と書いてあるのを見つけました。6人すぐに入れるというので店へ。北海道らしくジンギスカン定食があったので、迷わず注文。赤ちょうちんなので酒も豊富。参加者の川北さんとウォッカで乾杯しました。ショットグラスではなく大ぶりのブランデーグラス。飲みでがありました。顔合わせ直後の楽しい夕食。旅の成功を思わせました。
2. 二度目のプロペラ機
千歳空港からサハリンのユジノサハリンスクまでの飛行機を見てビックリ!。何と、プロペラ機だったのです。プロペラ機に乗るのはこれが二度目。最初はアエロフロートの国内線で、イルクーツクからハバロフスクまでの便。初めての海外旅行で乘りました。それから36年ぶりのプロペラ機。乗り心地は悪くなく、座席も二列ずつだったので、ゆったり。それにしても国際線がプロペラ機とは。驚きの出発となりました。
3. ガイドのサーシャさん
今回の旅行で、全日程のガイドを勤めてくれたアレクサンドル(サーシャ)さん。地元の大学教授で、日本語はペラペラでした。案内の際には、大学教授らしく多角的で深い説明をしてくれました。また、参加者の意見や要望も良く聞いてくれて、大変ありがたかったです。
4. 稚内市サハリン事務所
サハリン初日の夕食後に、稚内市サハリン事務所主査の中川善博さんを招いての懇談会。唯一のサハリン体験者で副団長の内藤さんの企画でした。発展著しい現状が語られました。21世紀になってから「ロシアの成長地点」であるとの話。ただ、観光の点ではいささか不足気味で、まだ「万人向けの観光地」にはなっていないということでした。次回も、この企画は続けたいと思いました。
5. 活気ある町
旅行2日目は、ユジノサハリンスク市内観光。関戸はモスクワ・サンクトペテルブルグには行ったことがありません。極東地域ばかりです。ハバロフスク、ウラジオストック、イルクーツクです。それらの街よりもユジノサハリンスクは活気があるように思いました。当時、「豊原」と呼ばれたこの町は、札幌を模して造られました。碁盤の目のような街並みで、初めてでも地図を見れば迷うことはありません。成長の息吹をそのまま感じる町並みです。
6. 宮沢賢治を追体験
市内観光は郷土史博物館からスタート。サハリンの自然や歴史、その発展が分かります。古代の展示では化石や鉱物の展示がありました。宮沢賢治は1923年に当時の樺太を訪れています。盛岡高等農林学校卒で農学校教員時代は土壌について教えていた宮沢賢治は、「石こ賢さん」と呼ばれるほど化石や鉱物に興味を示していました。現に樺太滞在中に植物採集をしており、化石や鉱物も対象でした。その宮沢賢治が見たであろう展示を追体験しました。
7. 日本にないもの
郷土史博物館の外に、「奉安殿」が残っていました。昭和天皇の御真影(写真)を納めたものです。日本では、戦後GHQの命令で全て取り壊されました。旧ソ連の国土となったサハリンでは、ここ以外でも行くところ行くところに残っていました。まさに、北辺の旧「日本」を感じるものでした。
8. 日本語表記がうれしい
チェーホフも調査旅行でサハリンを訪れました。過酷な流刑地のサハリンで医師として収容所の政治囚と接して、その記録を残しました。この経験を『サハリン島』という作品にしています。それらが展示されているのがチェーホフ博物館です。チェーホフは収容所で数多くの囚人の記録をカードにしていました。サーシャさんの勧めで、そのカードを旅行団全員が日本語で書きました。博物館に保存されるので次回に行った時には見てみたいものです。そして、何よりうれしいのは展示説明が日本語でも表記されていることです。ロシア語が分からなくても、この博物館は大丈夫です。
9. 宮沢賢治の足跡
旅行3日目は、全旅程中で最も遠距離移動。宮沢賢治の足跡を辿るコース。宮沢賢治は大泊(現コルサコフ)から鉄道で北上。残念ながら、当時の鉄道は廃線となってしまい、鉄道ではなく自動車でした。落合(現ドリンスク)では、廃墟となった旧王子製紙の巨大な煙突が印象的でした。昭和初期には日本のパルプ生産の半分を、この樺太が占めていたのです。「夏草や兵どもが夢の跡」を実感します。そして、落合から栄浜(現スタロドブスコーエ)へ。宮沢賢治が降りた駅は跡形もなく、ただ枕木の一部がわかるだけでした。しかし、当時と変わらぬハマナスの赤い色が強烈でした。この栄浜は『オホーツク挽歌』に描写されています。また、この栄浜での幻想的な風景が『銀河鉄道の夜』のモチーフとなりました。95年前の宮沢賢治の姿を思いました。
10. カニの美味さ
さらに北上し、白浦(ブズモーリエ)へ。途中、宮沢賢治が詩の中に残した「白鳥の湖」を車内から遠望しました。白浦では、鳥居。これは皇紀2600年(1940年)に建立されたものです。およそ80年前の鳥居がそのまま残っています。もちろん、碑文は日本語で表記されています。その後、街道沿いのカニの屋台へ。大きなカニを手づかみで味わいました。今朝捕れたばかりという新鮮さ。殻を鋏で開き、白身の肉をほおばりました。
11. 悲劇と歓喜
旅行4日目は一番の早起きで、真岡(現ホルムスク)へ。途中、熊笹峠を越えました。ここは日ソ両軍の激戦地となったところです。この峠を突破されたら一気に真岡市街へ。そのため、日本軍は必死の抵抗を行いました。大きな戦勝記念碑が建てられ、当時のトーチカも残っています。そんな歴史とは裏腹に、今は観光名所となっているとのこと。結婚式まで行われているそうで、その際に祝杯を割ったガラスの破片があちこちにありました。悲劇の歴史と現在の歓喜。あまりの違いに言葉を失くしました。
12. 「オケアン」の再現
博物館見学と高台からの見学、旧王子製紙工場跡見学の後、カフェで昼食。この時、小学生の団体と一緒になりました。一つのグループは20人程度。それが入れ替わり、食事に来るのです。持っていた紙で兜を作りました。角さんは鶴を。すると、「僕にも」「私にも」と子ども達が並びました。紙がなくなったので、食堂の人に「ウ ヴァス イェスチ ブマーシカ?」(紙ありますか?)と聞くと、「ハラショー」と、持ってきてくれました。折っていると、次のグループが食事に来ました。先生に「イズヴィニーチェ イェッショー アジーン ミヌータ」(すみません、あと一分)と頼んで、残っていた一人に渡しました。今回、ハバロフスク旅行は実施できなかったが、その際のオケアンキャンプ場での子ども達との交流そのままの状況でした。思い出に残る一コマでした。
13. 北のひめゆり
真岡というこの言葉を特別に感じるのは、北のひめゆりとも言われる悲劇があったからです。真岡郵便電信局の電話交換手9人の自決です。当時の郵便局の建物はありませんが、同じ場所に郵便局があります。参加者の梅津さんと、その郵便局で切手とハガキを買いました。郵便局からは綺麗な海が見えます。しかし、1945年8月20日の海にはソ連軍の軍艦があり、艦砲射撃を加えたのです。「捕虜になるのは死にまさる屈辱」という教育を叩きこまれていた当時の人々には降伏という選択はありませんでした。綺麗な海からは信じられない悲劇があったことを思いました。
14. 詩の朗読
旅行最後の夜は、夕食後に全員が関戸の部屋に集まりました。そして、宮沢賢治の詩を二編、全員で朗読しました。その詩は『オホーツク挽歌』と『樺太鉄道』です。宮沢賢治が樺太を訪れた理由は、教え子の就職を、王子製紙に勤務している高等農林時代の先輩に相談するためでした。それは表向きの理由で、前年死去した妹トシを想っての旅行であったということが研究者の常識です。そのことについて、参加者全員で、語り合いました。宮沢賢治が隣にいるのか、と思うくらい、発言する人は宮沢賢治になり切っていました。普段、国語教師として教室で宮沢賢治を教えていますが、ここでの語り合いはとても勉強になりました。また、大いに感銘も受けました。ここでの語り合いを教室で教えていきたいです。
15. ここはどこ?
旅行最終日は、午前中にショッピングモールへ。モール内は「ここはどこ?」、東京?大阪?と思うぐらいの規模。内容も充実しており、「極東最大」という評判通り。実際、参加者が迷ってしまったほどなのです。このショッピングモール一つ見ても、サハリン全体の活気や成長が感じられます。
(文・関戸/写真・内藤)