◆ 第149回 弟イヴァン二世、大公となる(統治1354-1359年)
14世紀における全世界的なペストの流行は、モスクワにまで達した。イヴァン・カリターの子孫もそれを免れることはできなかった。1353年4月にイヴァン・カリー他の長子であった大公セミョーンが亡くなると、その年の7月にはセミョーンの末弟であるアンドレイが死去した。カリターの三番目の息子であるイヴァンだけが、ペストにかからなかった。
大公セミョーンの死後、慣例に従って、ウラジーミル大公位要求者たちは勅書を求めて汗国へ向かった。大公位をめぐってモスクワ公イヴァンと対等に張り合えたのは、ノヴゴロドの支持を得たスーズダリ公コンスタンチンだけであった。とはいえ、モスクワの公はすでにイヴァン・カリターの時代から汗国の信頼厚く、加えてイヴァン自身も兄たちと汗国を再三訪れていた。このような背景もあり、イヴァンは汗国でウラジーミル大公国の勅書を受け取ることができた。ノヴゴロドの人々は事態のこのような結果に多くの不満を抱き、新大公と和解したのはようやくその半年後のことであった。汗国での儀式の後、1354年3月25日にイヴァンはウラジーミルのウスペンスキー大聖堂で戴冠式を行い、イヴァン二世としてウラジーミル大公国を治めることとなった。
時は遡るが1341年、父親であったイヴァン・カリターの遺言に従って、イヴァンはモスクワの土地と不動産の三分の一を手に入れ、さらにモスクワ国庫にある財宝、国庫からの収入の一部をも受け継いだ。それ以外にも、彼には23の町と村が遺産として与えられ、その中で最も重要であったのはズヴェニゴロドであった。そのため、イヴァンは土地と財産によってモスクワ公ともみなされたが、ズヴェニゴロド公ともなった。
兄である大公セミョーンが亡くなった今、イヴァン二世はイヴァン・カリターの一族中唯一の成人男性として、ウラジーミルおよびモスクワの大公となった。だが、モスクワ市の三分の二とそこから国庫へ流れる収入は彼の手中にはなく、さらにモスクワ公国の中の30以上の町と移住地も彼の支配下にはなかった。それらは世襲分領地であり、亡くなった兄のセミョーンはその内の一部を自分の妻マリヤに遺言で与え、それ以外は彼の末弟であるアンドレイの死後は、アンドレイの息子ウラジーミルのものとなっていた。マリヤが亡くなった場合のみ、彼女が所有するすべての土地と財産、および彼女の幼い二人の息子の後見役の任が、セミョーンの遺言状により、イヴァンの手に移ることとなっていた。
しかしながら、新大公イヴァン二世は金も払わずに、マリヤが所有する町と土地の一部をあっさりと奪い取ってしまった。それは、コロムヌとモジャイスクの町とそれら周辺地域、モジャイスクのすべての郷、コロムヌの三つの郷であり、全モスクワ公国の住民から通商税を徴集する権利も含まれていた。後にマリヤは自分を軽んじたイヴァン二世よりもはるかに長生きしたが、彼女の息子たちの運命については諸々の年代記は何も伝えていない。
次回は「イヴァン二世もペストに倒れる」。乞うご期待!!
挿絵:イヴァン二世
pochta-polevaya.ru/aboutarmy/calendar/born_on_this_day/36339. より
(文:大山・川西)
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