◆ 第146回 大公イヴァンの遺言と息子セミョーン(統治1341-1353年)
1341年3月31日に大公イヴァン一世・カリターが亡くなったが、彼には三人の息子、すなわち、セミョーン、イヴァン、アンドレイがいた。さらに、年長順では二番目となる息子ダニールが存在していたようであるが、彼は幼少の頃に死亡し、その名が言及されているのは系図の中のみである。故大公の遺言状に従って、息子たちのそれぞれは、当時としては極めて大きな分領地を遺産として受け取った。年長のセミョーンは、モジャイスクとコロムナを含む26の町と移住地を手にし、イヴァンは、ルーザとズヴェニゴロドを含む23の地を、アンドレイは、セルプホフを含む21の地を手にした。故大公は、自身の妻と娘たちのことも忘れてはいなかった。彼は、彼女らに26の地を遺言で残した。
イヴァン・カリターは、独特の方法で世襲領地モスクワを子供たちに分与した。というのも、彼は汗国をあまりにも知りすぎており、汗の意志を予測するのは不可能であることをよくよく知っていたからである。イヴァン・カリターは何よりも、モスクワ公家の全体的な存続と強化を願い、独自の遺言状を作成した。彼の遺言によって、町々は等分に、一族の年長順に応じてわずかな増加を付して分けられ、モスクワも同じく等分に、三人の息子に分配された。故大公はさらに、大公国勅書受領に関してもいくつかの計画を練っていた。彼は、この件に関して金がどのような価値を持つのか、非常によく理解していた。彼は、もし年長のセミョーンが何らかの理由で勅書を受け取ることができなかった場合に備えて、年少の息子たちに遺言状を通して多額の資金を確保させていた。しかし、彼らの内の誰が大公になったとしても、兄弟全員はモスクワにある自らの分け前の土地、不動産、モスクワ国庫によって、モスクワに結びつけられていた。
セミョーンはモスクワ公国の一族の中でも最年長者となり、法にかなった大公位要求者であった。彼はその大公位を、数多くの町々から成り豊かな財源を有するモスクワの地からでもって、さらに揺るぎないものにしていかなければならなかった。
イヴァン・カリターの葬儀の後、しかるべき時を経て、彼の子らを含む大公位要求者たちは、汗国へ向かった。セミョーンにはライバルとなり得る競争相手がおらず、ウズベク汗は彼をウラジーミル大公として公認した。汗国でしかるべき儀式が行われた後、1341年10月1日、セミョーンはウラジーミルのソボールヌィ聖堂で大公位の戴冠式を執り行った。この年、セミョーンの弟たちは十字架に接吻して、長兄への忠誠を誓ったのであった。
次回は「新大公セミョーンとノヴゴロド」。乞うご期待!!
大公セミョーン
http://mirror7.ru.indbooks.in/ より
(文:大山・川西)
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