
◆ 第144回 ノヴゴロドとの衝突
大公イヴァンの度重なる汗国訪問には莫大な経費がかかり、彼はノヴゴロド人が持つ豊かな富によって自身の国庫を補充しようと再三試みたが、ノヴゴロドは大公に絶対服従しようとはしなかった。1333年、ノヴゴロドを屈服させるために大公イヴァンはトルジョークを占領し、一月にはリャザンとスーズダリの公らと共にノヴゴロドの他の郷を攻撃、さらに先を見越して長男セミョーンをリトアニア大公の娘と結婚させた。その後、イヴァンは急遽汗国へ出立したが、帰還すると、1334年2月にノヴゴロドの人々と和睦を結んだ。しかしながら、1337年にイヴァン自身が和平を破ってしまった。それは、ノヴゴロドの富を奪取しようとする、やはり同じ理由からであった。汗への定期的な訪問は、モスクワの国庫を空にしてしまっていたのである。イヴァンは、お金を集めるためにヴォロクの向こうのドヴィナへ従士団を差し向けたが、ノヴゴロドの税徴集人は通常、強力な部隊によって守られており、襲撃したモスクワの兵士たちは「辱めを受け、傷を負わされた」。その後、大公はノヴゴロドに追加の貢税を課そうと二度試みたが、どちらもその企みは失敗に終わった。
1338年、汗から恩赦を受けたかつての大公アレクサンドルが、公国統治のためにトヴェーリへ戻り、大公イヴァンは大きな不安を感じるようになった。というのも、この頃、ルーシ諸公の間にはモスクワに対する不満がひどく高まっており、アレクサンドルの帰還に伴って、こういった不満分子がトヴェーリに集結するようになることを、イヴァンは内心恐れたからであった。ルーシ諸公の世襲領地で大公や大公の高官は厚かましくも我がもの顔に振舞っており、彼らに対して公然と憤慨する者もいた。いずれにしても、モスクワとトヴェーリの昔からの敵対関係が再び露わになったのであり、どのような理由かは不明であるが、年代記には、イヴァンとアレクサンドルが何かについて合意に達せず、和平を結ばなかったことが記されている。
1338年の末、アレクサンドルの息子フョードルが何らかの用件を携えて汗国へ到着した。トヴェーリ諸公のあらゆる動きを探っていたイヴァンはこのことを知ると、自分の年長の息子たちを連れて自らも汗国へ赴いた。幾つかの年代記には、汗国でモスクワの者たちが、汗とその側近らの前でトヴェーリのアレクサンドル公のことを誹謗中傷し、前大公のアレクサンドルを汗国へ呼び出すよう汗らに求めたこと、さらに大公イヴァンにしかるべき態度で従わなかった別の幾人かの公たちも呼び出すよう求めたことが、記述されている。
ウズベク汗は激怒した。1339年10月29日、前アレクサンドルと彼の息子フョードルは、汗国にて処刑されたのである。
次回は「イヴァン・カリターの最期」。乞うご期待!!
挿絵:ウズベク汗
http://history-doc.ru/uzbek-xan/ より
(文:大山・川西)
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