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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第148回 大公セミョーンの妻たち

 新たな汗チャニベクへの挨拶を終えた大公セミョーンは、帰国の途に就いた。ちょうどその頃、1342年5月31日にモスクワ大火災が起こり、それによってによって三十近くの教会堂が焼けた。

 1345年3月11日、大公セミョーンの妻アナスターシヤが亡くなった。この頃にはモスクワは大火災からある程度復興していた。この最初の妻アナスターシヤとセミョーンが結婚したのは、1333年のことである。当時ノヴゴロドと衝突していたセミョーンの父、イヴァン・カリターは、先を見越して、リトアニア大公ゲジミンの娘アウグスタ(洗礼の時にアナスターシヤの名を受ける)とセミョーンとの結婚をととのえたのである。この結婚生活において、セミョーンは後継者を得られなかった。1337年に生まれた公子ヴァシーリーが生きたのはわずか一年ちょっとであり、その四年後に生まれた二番目の息子コンスタンチンは、生後二日目に亡くなった。娘ヴァシリーサの運命については、年代記には何も記されていない。

 大公セミョーンは自らの後継者を得ることを急いたのか、あるいは妻の死をあまり悲しまなかったか、どちらかだったに違いない。アナスターシヤが亡くなった年に、彼はスモレンスク公フョードルの娘エフプラクシヤと結婚したが、翌年には離婚して彼女を父親のもとに送り返した。「系図の書」には、この離婚に関して次のような記述が見受けられる。「大公妃は結婚式で呪いをかけられて病に侵された。大公と共に床に入ると、彼には彼女が死人に見えた…」と。これは、エフプラクシヤの性的不感症について語られていると思われる。

 1347年の初頭、ノヴゴロドから戻った大公セミョーンは、故大公アレクサンドル(ミハイル二世の息子)の娘マリヤと三度目の結婚をした。この年の12月、長子ダニールが生まれ、一年後にはさらにミハイルが生まれた。1351年と1352年には続けてイヴァンとセミョーンが生まれた。子供たちは健康に育ち、一族の存続のことでセミョーンが思い悩むことはなくなった。

 1350年代初め、中国大陸で発生したペストが西ヨーロッパまで及び、全世界にわたる大流行となった。1352年、当時「黒死病」と呼ばれていたペストは、プスコフの地をも荒廃させ、1353年にはモスクワへと忍び寄った。その年の三月の初めに府主教フェオグノストが亡くなり、その数日後には大公の年少の息子たちであるイヴァンとセミョーンが死去した。まもなく、ペストの兆候が大公セミョーンにも現れた。

 自分の父に倣って、彼は遺言状を作成した。自分が亡くなった後、妻マリヤがダニールとミハイルを立派に育て上げる育て上げるよう望み、彼女に自分の全財産と土地を遺言で譲った。しかしながら、それらの財産は、同じくセミョーンの遺言状によれば、マリヤの死後にはセミョーンの弟であるイヴァンに譲渡されなければならなかった。

 大公セミョーンは剃髪式を受けてソゾントという修道名を得た後、1353年4月26日から27日にかけての深夜に逝去した。大公はアルハンゲル・ミハイル教会に埋葬された。

 次回は「弟イヴァン、大公となる」。乞うご期待!!

14世紀におけるペストの大流行
archaeo-news.blogspot.com/2011/08/blog-post より

(文:大山・川西)

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