
◆ 第147回 新大公セミョーンとノヴゴロド
新大公セミョーンは、統治政策において自分の父の路線を踏襲した。彼は、汗と汗の妻たち、高官らに贈る高価な贈り物を携えて汗国へ五回に渡って赴き、貢税を確実に納めた。そのおかげで、ルーシの地は平和であった。大公セミョーンは、自分の弟たちを含む分領公らを必要以上に厳しく扱うことなく服従させたが、不服従者たちに対しては厳しい処罰を施した。セミョーンには権力を行使する能力が十分にあり、彼の大公位が揺るがされることは一度としてなく、それゆえに彼は“誇り高いセミョーン”とも呼ばれた。彼は、その印璽に“全ルーシの大公”と刻まれた最初の統治者であった。
セミョーンの父親の時代に、モスクワとノヴゴロドとの関係は複雑なものとなっていった。ノヴゴロドの人々は調印された条約に従ってモスクワとの関係を維持しようと努めていたが、イヴァン・カリターは何度失敗しようとも、ノヴゴロドの地から追加の貢税を徴収しようと再三試みた。セミョーンは大公位を継承した最初の数週間の間に、ノヴゴロドの人々の態度を見極めようとし、ノヴゴロド公位へ正式に招致されるのを待たずに、トルジョークへ自身の貢税徴収人を差し向けた。彼の貢税徴収人は、一回限りの大公国統治の勅書代をトルジョークの人々に要求したが、トルジョークはこのような図々しさに腹を立て、ノヴゴロドに助けを求めた。ノヴゴロドから貴族たちが到着し、セミョーンの貢税徴収人が捕えられ、大公の報復行動に備えてノヴゴロドの従士団が呼び出された。しかし、ノヴゴロドの人々は民会で自分たちの貴族の行動に賛同せず、トルジョークの人々も考えを改めた。セミョーンの徴収人は解放され、トルジョークにいたノヴゴロドの貴族は故郷へ帰された。一連の出来事を知った大公セミョーンは、分領諸公の幾つかの連隊によってさらに補強された自らの従士団を引き連れて、1342年にかけての冬、トルジョークへ繰り出していった。あらゆる場合に備えるためであった。
ノヴゴロドの人々は出迎えに使者を差し向け、新大公の権力を認めて彼の代理人を受け入れた。その後、ノヴゴロドとモスクワの間で具体的な衝突はなかったものの、両者は五年間に渡って我を張り通した。ノヴゴロドの人々はノヴゴロド公位への招致を大公に送らず、一方セミョーンは統治者になろうと彼らに無理やり頼み込むことはせず、ノヴゴロドの代理人を置くだけで我慢していた。こういった緊迫関係を危惧したノヴゴロドの人々は、しばらくするとモスクワへ自らの大主教ヴァシーリーを差し向け、大主教ヴァシーリーは大公セミョーンにノヴゴロドからの正式な招致状を手渡した。1346年12月、大公セミョーンはノヴゴロドにおよそ三週間滞在し、その地の統治を引き受け、そしてモスクワへ出立した。
それより遡ること4年、1342年にウズベク汗が亡くなった。汗国の統治は彼の息子チャニベクの手に移り、慣習に従ってルーシ諸公は新たな汗のもとに忠誠を示すために赴いた。大公セミョーンは汗国で大公国統治の勅書に対してあらためて確認を受け、敬意をもってモスクワへの帰還が許されたのであった。
次回は「大公セミョーンの妻たち」。乞うご期待!!
挿絵:大公セミョーン
(文:大山・川西)
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