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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第112回 ミハイルの人柄とその家族

 1294年11月8日、トヴェーリ公ミハイルは、その頃亡くなったロストフ公ドミートリーの娘であるアンナと結婚した。彼女はミハイルに四人の息子―ドミートリー、アレクサンドル、コンスタンチン、ヴァシーリー―を生んだ。

 年代記作者らによれば、ミハイルの母親である公妃クセニヤは、ミハイルを「神の畏怖のもとで育て、聖書(の教え)とあらゆる賢明さを教え込んだ」。この母親にミハイルはとりわけ優しく接し、母親の方でも大酒を飲まないミハイルをいとおしんだということである。また、年代記には、ミハイル公が幼い時から神を愛し、神に関する数々の書物の朗読に常に喜んで耳を傾け、聖職者に贈り物をし、その上、彼が非凡な知性を有していたことが指摘されている。

 すでに何回かタタール軍を引き連れてスーズダリの地を襲来してきた大公アンドレイ三世は、それが故に分領地の諸公らと不安定な関係にあった。一方、彼を支持していたキプチャク汗国では、ノガイ汗国との深刻な諸問題が勃発していた。これを受けて、中央ルーシ諸土地の諸公は、あらゆる時に備えて自分たちの力を結束させることを決めた。1296年になると、アンドレイ三世の弟であるモスクワ公ダニールと、トヴェーリ公ミハイル、ペレヤスラヴリ公イヴァン(前大公ドミートリーの息子)は同盟を結んだ。その一年前、ミハイルは、ノヴゴロドと互いに軍事援助し合う約束をも取り付けていた。そして、これらによってミハイルは、アンドレイ三世に対して先手を打つこととなった。

 同1296年、アンドレイ三世は、ペレヤスラヴリ公イヴァンがペレヤスラヴリの地を自分にではなく、モスクワ公ダニールに譲渡しようとすることが気に入らなかった。周囲は思った、「アンドレイ三世は十中八九、そのことが理由で汗国に援助を求めるために出向くか、あるいは彼自身が軍事行動を開始するにちがいない」と。諸公はそのことを協議するためにウラジーミルに集まり、主教シメオンの助けを得て相互の確執と論争は解決したかのように思われた。だが、その集会後すぐにアンドレイ三世は従士団を連れてペレヤスラヴリに発ったのである。ペレヤスラヴリ公と同盟を結んでいたトヴェーリ公ミハイルとモスクワ公ダニールは、軍隊を引き連れてユーリエフ付近で大公のゆく手に立ちはだかった。大公は彼らと交渉せざるを得なくなり、しぶしぶ和平を結ぶこととなった。1301年、諸公は再び協議をするために今度はドミトロフに集まったが、1304年の夏にはアンドレイ三世が死去した。

 すでに触れたように、スーズダリの地を破壊したタタール軍はトヴェーリには進軍せず、1304年頃にはトヴェーリはルーシの中で最も強い公国となっていた。アンドレイ三世の死後、彼に付き従っていた多くの貴族がトヴェーリ公国に仕えようとそこへ向かった事実が、このことを如実に証明している。

 次回は「ミハイル、大公位に就く」。乞うご期待!!

(大山・川西)

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