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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

汗からもらった勅書

第113回 ミハイル、大公位に就く

 大公アンドレイ三世が1304年に死去すると、トヴェーリ公ミハイルは北東ルーシの諸公の中の最年長者となり、同時に、故大公ヤロスラフ二世の血を引く唯一の生き残っている孫となった。13世紀の半ばからルーシの大公位には、このヤロスラフ二世の子孫が就いていたのである。しかし、このようなルーシにおける権力譲渡の伝統にもかかわらず、最終的な決定権を握っているのは汗であった。

 この頃、キプチャク汗国は敵対するノガイ汗とその軍隊をこらしめて、再び単一の国家となっていた。ミハイルはそこへ1304年に赴いた。トヴェーリの貴族らは、ミハイルが大公国の勅書を手にするであろうと確信していたので、彼が不在の間も勝手に統治に携わり、大公ミハイルの名を使って自分たちの代理者をノヴゴロドへ派遣していたほどであった。

 ところが実際には、ミハイルのいとこの息子にあたる、モスクワ公ユーリー(112回に登場したモスクワ公ダニールの息子)が自らの大公位請求権を表明し、ミハイルの後に続いて勅書をもらいに汗国へ出発した。トヴェーリの貴族らは彼を捕えるために部隊を送り出したが、ユーリーは汗国へたどり着いてしまった。それと時を同じくして、トヴェーリの人々は、ユーリーの領地であるペレヤスラヴリへ軍隊を送っていたが、それも上手くいかなかった――モスクワがペレヤスラヴリの人々を助けるためにやって来、彼らは協力してトヴェーリの軍隊を無残に蹴散らしたからである。さらにトヴェーリの貴族らは、ノヴゴロドともまずい事態になっていた。ノヴゴロドの人々は、まだ汗から承認されていないミハイルの代理人を受け入れることを拒み、戦いに備えてトルジョークへ軍隊を送ったのである。しかしながら、折りよく、ノヴゴロドの町にトヴェーリの軍隊が近づいていることが判明し、双方和睦がなされ、ユーリーとミハイルが汗国から帰って来るまで待つことが取り決められた。ようやく1305年の秋になって、ミハイルは大公国の勅書を得て汗国から帰還した。ミハイルの先任者らがそうであったように、ミハイルも大公位即位の式典をウラジーミルで行った後は自らの世襲地であるトヴェーリに戻り、ウラジーミルを生活の拠点とすることはなかった。名ばかりの大公国の首都と化していたウラジーミルは、その頃までにルーシの都としての機能、華やかさのほとんどすべて失っていた。

 さて、モスクワ公ユーリーが大公位を請求した事実は、ルーシの中でトヴェーリのみが強大になっていたわけではないことを示していた。このことを新大公ミハイルも認識しており、彼は1305年と1308年の二度に渡って、力ずくでのモスクワ占領を試みた。この試みは二回とも失敗に終わり、公たちは和睦し、それに続く三年間はお互いを煩わすことはなかった。

 1306年から1308年くらいの間に、正確な日付は不明であるが、ミハイル大公は正式にノヴゴロド公位に就いた(勅書をミハイルが手にした時からすでに彼の代理人が統治はしていたが)。

 次回は「大公ミハイルとモスクワ公ユーリーとの対立」。乞うご期待!!

(大山・川西)

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