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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第72回 モンゴル人の最初の襲来

チンギス汗

 1223年は、ルーシ国家の歴史における悲劇的な諸々の事件の幕開けの年となった――ルーシの従士団が初めてモンゴル人と武器を交えたのである。

 この時のモンゴル軍は、チンギス汗(ハン)の大遠征の別働隊であって、ジェベとスブタイに率いられた彼ら二万の軍勢は、ポロヴェツ人を襲った。ポロヴェツの汗コチャンは南ルーシの諸公に援助を求めた。モンゴル軍の強さを知る由もなく、ジェベとスブタイの大軍をいつものステップ人の大軍とみなした南ルーシの諸公は、降伏を勧告してきたモンゴル軍の使者を全員殺した挙句、モンゴル軍と対峙すべく進軍していった。かなり前から遊牧民の大胆な戦術に慣れており、遊牧民の個々の軍隊も、また同じくその大軍も首尾よく撃破していたルーシの軍司令官らは、まったくもって油断していたのである。最初の交戦には勝ったものの、その後カルカ河畔の会戦では完全に包囲されたルーシ諸公はやむなく降伏した。しかしながら、ルーシの軍隊は諸公以下ほとんど全員が虐殺され、その時になって初めてルーシの人々は、モンゴル軍の強さと恐ろしさを思い知らされたのである。モンゴル軍はさらに西進して、ドニエプル河畔のペレヤスラヴリを攻めた後、北東に向きを変えたが、十分な戦果が得られないまま、ヴォルガ川にそって南下し、草原の彼方に去っていった。

 カルカ河畔の会戦を頂点とする、このモンゴル軍の最初の襲来について、年代記は、「数多の人々が滅びた。いたるところの都市や村落は、慟哭と号泣に満ちた」と書き記している。

モンゴル帝国の最大版図

 遠い東の地からモンゴル軍についてのばらばらの情報が届いていたが、ルーシ諸公が、中央集権化されたモンゴル帝国が形成されたことを知っていたとしても、その軍隊がルーシ国境に現れるとは予想もしなかったに違いあるまい。1204-1205年にモンゴル族長の総大会において、「大いなる汗」として、すなわち、「全汗の汗」として選ばれたのは、モンゴル部族の一つの族長の息子テムジン(チンギス汗)であった。1230年代の初めまでには、チンギス汗は多くの部族と民衆を支配下に置き、東方の広大な領土を征服すると、自分の勢力を西方へ拡大する時が来たと感じる。ルーシへの襲撃はその頃、チンギス汗の計画の内には入っておらず、ポロヴェツ人のステップに現れたモンゴルの大軍はまったく別の任務を持っていた。その後、チンギス汗が亡くなってから、ロシア征服が公に目論まれてゆく。

(大山・川西)



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