◆ 第82回 “タタールのくびき”の前夜―スヴャトスラフ三世(統治1246-1248年)の若かりし頃
1246年9月30日に、カラコルムからルーシへ戻る道中、大公ヤロスラフ二世が亡くなった。ウラジーミル大公位には、年長制に従って、彼の弟のスヴャトスラフが就いた。
フセヴォロド三世の七番目の息子であるスヴャトスラフは、1196年3月27日に生まれた。早くも1200年の12月には、父親はスヴャトスラフをノヴゴロドの統治に差し向けた。当時一般に受け入れられていたように、大公の幼い息子の名によって、実質的には大公の信任厚い経験豊かな貴族が統治していたのである。1202年頃になると、ノヴゴロドの人々と彼らの間で深刻な不和が生じるようになり、スヴャトスラフの代わりに彼の兄コンスタンチンが到着した。1208年、スヴャトスラフは再びノヴゴロド公位に就くが、それはその前年にフセヴォロド三世がコンスタンチンをロストフへ移した後のことであった。あらゆることから判断して、スヴャトスラフと彼の側近たちは、ノヴゴロドの人々と決して折り合ってはいなかった。1210年、トロペツのムスチスラフが自らの従士団を従えてスモレンスク公国からノヴゴロドの地へやって来て、トルジョークを占領し、スヴャトスラフに代わって自分が公となることをノヴゴロドの人々に申し出た。ノヴゴロドの人々はその提案に賛同し、彼を自分たちの公として宣言し、スヴャトスラフの身を拘束してしまった。弟のスヴャトスラフを助けるためにコンスタンチンとヤロスラフが出て行ったが、大公フセヴォロド三世は彼らを呼び戻し、ムスチスラフと穏便に取り決めを交わして、スヴャトスラフはウラジーミルへと戻ったのである。
年代記は、スヴャトスラフの人格に関して何も語っていないが、彼の優柔不断さは1212年から1216年にかけて現れている。それは、当時においては公がすでに成年に達していた時であった。父親である大公フセヴォロド三世の死後、ウラジーミル大公位をめぐって、彼の年長の息子たちであるユーリーとコンスタンチンの間で戦いが起こった。スヴャトスラフは最初ユーリーの側に付き、その後、コンスタンチンを支持する陣営へと移り、ところがしばらくして、自らの従士団を引き連れて再びユーリーの側に立って戦ったのである。スヴャトスラフにおけるこの性質は、さらにその後、すでに大公となった暁にも現れることとなる。
1220年からスヴャトスラフは、大公である兄のユーリー二世の意志を遂行しつつ、幾つかの軍事遠征を成功裡に収めた。1220年から1222年にかけて、彼は兄ヤロスラフとロストフ公ヴァシーリーの従士団に支えられて、ウスチュクを占領していたヴォルガ・ボルガル人と戦った。その一年後、ノヴゴロドの人々と共にリヴォニア人を相手に同じく首尾よく戦い、さらに三年後には弟イヴァンと共に、モルドヴァ人と戦った。これ以後、大公位に就任するまで、年代記は何回か取るにたらぬ理由で彼のことを取り上げているに過ぎない。1238年に、新大公ヤロスラフ二世は自分の弟たちに分領地を分け与えた。スヴャトスラフはスーズダリを治めることとなった。
次回は「勅書を求めて」。
乞うご期待!!
(大山・川西)
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