「一人は皆のために、皆は一人のために」DVD上映会報告
11月8日(日)、前日の11月7日の革命記念日に因んで『戦艦ポチョムキン』の上映を行いました。
6月14日の上映会は不手際で『シベリヤ物語』に変更しましたが、今回は上映できました。6月以来の念願を果たした中垣内さん、自ら上映を持ちかけてくれた原田さんの他、スタッフは柴田会長、田中理事長と関戸でした。
映画そのものはサイレントでしたが、バックに『仕事の歌』や『ワルシャワ労働歌』などが挿入されて、臨場感がありました。日露戦争下、遠い日本まで遠征し大敗を喫したロシア海軍。何のために、そして誰のために戦うのか。誰も戦争などは欲しません。貧しくとも、家族が一緒に暮らせれば不幸はありません。けれども、戦争はそういう一般の人たちを巻き込むのです。ポチョムキンの艦内にはそういう一般の家庭から召集された兵たちが多数いました。艦内 での生活の楽しみは食事です。その食事の際に、蛆がわいた肉をスープの中に入れたのです。誰も食べようとはしませんでした。その時、士官が食べようとしない兵たちを処罰しようとしました。兵たちの怒りは頂点に達し、ついに士官たちに反抗したのです。これがポチョムキンの反乱でした。
反乱の際に、一人の兵が銃弾に倒れました。その死体をオデッサ(横浜の友好姉妹都市)の港の岸壁に横たえました。「一匙のスープのために」と書かれた紙と一緒に。多くの市民がその死を悼みました。ポチョムキンの乗組員はオデッサ市民との連帯を深めました。ともに農村出身や一般市民なのですから。そこへ現れたのが、反乱を鎮圧しようと出動してきた軍隊だったのです。女性であれ、子供であれ、ポチョムキンの乗組員と交流していた市民は標的にされました。号令のもと、一斉射撃を浴びて市民は次々と倒れていきました。瀕死の子供を抱えた母親が、「子供が死にそうなの。撃たないで」と叫んでいるにも関わらず、平気で射殺していくのです。軍隊とは、同胞に 対しても 命令さえあれば、殺戮を行うのです。
その惨状を知ったポチョムキンの乗組員は、市民を殺戮する軍隊に対して艦砲射撃を行いました。このことにより、ポチョムキン以外の全ロシア海軍が敵となったのでした。いよいよ、そのポチョムキンを制圧するために、他の軍艦がポチョムキンを取り囲みました。もはやこれまでと死の覚悟をしたポチョムキンの乗組員の前に、他の軍艦は「兄弟よ」と信号を送ってきたのです。サイレント映画ですが、このシーンは「ウラー(УРА)」という歓声が聞こえてくるような気がしました。そして、映画の字幕に「一人は皆のために、皆は一人のために」と描かれるのです。このポチョムキンはかつて世界中の映画のベストワンに輝きました。それは、この言葉が全世 界の人々の心に響いたからではないでしょうか。以前、10月号の記事に賢治祭のことを書きましたが、まさに宮沢賢治と同じで「世界が幸福にならない限り、個人の幸福もない」のです。
餓えた子供が「お母ちゃん、おなかすいたよ」と母親に訴えているのに、母親は「我慢おし」と言っているその目の前でステーキを食べて、おいしいと感じるでしょうか。
多くの人を泣かせて、かき集めた金で贅沢三昧をして幸福だとおもうでしょうか。
幸福とは、それをともに分かち合う人がいるからこそ実感できるのではないでしょうか。まさに「一人は皆のために、皆は一人のために」尽くすからこそ、人はすばらしいのではないでしょうか。そのことを感じさせてくれた上映会でした。
(関戸)
全姉妹都市での原爆展開催、ロシアとの姉妹都市関係樹立に関する横浜市への要望
去る11月27日、「横浜市非核兵器平和都市宣言・市民の集い実行委員会」{よびかけ人:森井眞(元明治学院大学長)、小沼通二(慶應大学名誉教授・世界平和アピール七人委員会事務局長)、勝俣誠(明治学院大学国際平和研究所所長)、金子勝(慶應大学教授)ほか}は横浜市に対して19項目に及ぶ「非核兵器平和都市横浜への要望書」を提出しました。議会開会中の為、赤岡国際局次長(写真中央)、担当課長(左)、係長(右)が対応し各項目について実行委員会から説明が行われました。会合は和やかな雰囲気の中で行われました。主な要望項目は核実験停止、核兵器禁止条約の締結を核保有国及び姉妹都市、関係諸機関に働きかける事、赤レンガ倉庫などに「平和博物館」を造る事、日吉台地下壕(旧、連合艦隊司令部)など戦争遺跡を保存する事などでした。
柴田順吉委員(当会会長)からは隣国ロシアとの姉妹都市関係の樹立、横浜市の全姉妹都市における広島・長崎原爆展の開催の二点が要望されました。これらの要望は横浜市に於いて検討の結果、文書回答されます。
実行委員会はまた横浜市が地方自治の理念に基づき、単なる中央政府の下部機関としてではなく、市民の声を反映して市民と共に行政を執行する事、文書回答受領後に再度話し合いの場を持って平和の事業を官民共同して推進する事を申し入れました。
(柴田)
報告・第17回大河アムール・ハバロフスク市民交流の旅
今年のハバロフスク旅行(第17回大河アムール・ハバロフスク市民交流の旅)は8月5日(水)~10日(月)の5泊6日の日程で行いました。
参加費は23万円で、参加者は目標20名のところ12名でした。
今年は関東近県だけでなく、遠くは九州、沖縄からの参加もありました。(神奈川県3人、広島県3人、東京都、山梨県、群馬県、福岡県、熊本県、沖縄県各1人)
■ 第1日目 8月5日
出発は羽田空港早朝でしたが、この日出発したのは5人で、残り7人は航空会社の便の都合で、前日4日の出発になりました。
というのは、去年までの航空便は、成田~ハバロフスク間をシベリア航空を利用していましたが、デポジット制などで高くつくものであったために、今年はアシアナ航空で、羽田~仁川、仁川~ハバロフスクの経路を利用することにしたのです。去年まではそのほうが料金が安かったためです。
ところが今年は期待に反して、羽田~仁川間の路線の人気が高まったこともあって、去年よりも高くなってしまいました。そこで参加が早くから確定している何人かは早割運賃を利用して、全体の運賃を下げようとしました。ところが7月に入ってアシアナ航空が羽田~仁川の便をキャンセルしたので、代替の大韓航空に、ほぼ同じ運賃で切り替えることになりました。しかしあとから参加が確定した人の運賃は、かなり高額で、23万円の参加費では到底収まらないものでしたので、やむをえず前日のアシアナ便を利用せざるを得なくなったのです。
仁川空港で全員がそろい、アシアナ便でハバロフスクに向かい、午後3時ごろには到着しました。空港では、現地の「インツアー・ハバロフスク」というツーリストの大変若いガイドのタティアナ・ティーホン(名刺の表記通り)さんが迎えてくれました。このツーリストはインツーリストホテルの関連会社と思われ、私たちにとっては初めての会社です。去年まで付き合っていた会社は、廃業してしまったのです。中型のチャーターバスに乗り込み、宿泊するインツーリストホテルには4時ごろ着きました。空港からは30分ほどで来れるのです。この日は特別なイベントはないので、各自散歩したりホテルでくつろいだりしました。夕食は全員ホテルのレストランでとりまし た。
■ 第2日目 8月6日
この日は広島の原爆記念日でもあり、ホテルのすぐ近くにあるハバロフスク州の郷土史博物館で行われる、ロシア極東地方では、初めての原爆展に全員が参加しました。会場は40席ほどがある会議室で、原爆写真が部屋の両側に展示されていました。主催団体であるハバロフスク州対外友好協会理事長のゾーヤ・ロイトマンさんの司会進行で、ロシア側から博物館学術担当副館長のイワン・クリュコフさん、ロシア極東開発大臣顧問のウラジーミル・クチュークさん、日本側から柴田会長のあいさつが行われたのち、アニメ「アンゼラスの鐘」(ロシア語字幕付き)が上映されました。なお開始時とあいさつの中で2回黙とうを捧げました。また通訳は野口さんが行いました。
上映が終了したときは12時を回っており、チャーターバスでドーム(дом)というレストランに向かい、昼食をとりました。
昼食後、ハバロフスク園芸家協会の事務を訪問し、そこで去年から交替した女性の会長さんの歓迎のあいさつを受けました。ハバロフスク州の市民の70%はダーチャを所有しているとのことでした。1時間ほどの短い時間でしたが、ダーチャコースの参加者から熱心な質問があり、充実した内容になりました。
一旦ホテルに戻ってから、夕方、再びバスで、今度はハバロフスク技術大学内にある対外友好協会の事務所に向かいました。対外友好協会会員との親睦会に参加するためです。そこにはロシアのテレビの取材チームが来ていて、広島県連の藤井さんがインタビューに応じ、また柴田さんが質問に答えました。
親睦会としては、関戸さんが筆と墨汁で、ロシア人の名前をカタカナとロシア語で書いたり、比嘉さんが三線(さんしん)で沖縄の民謡を何曲か披露しました。
ただロシア人の参加が少なかったことは残念でした。
親睦会終了後は、ダーチャコースとホームステイに分かれます。ダーチャコース8人はバスで、ダーチャに向かいます。残った ホームステイの4人は男性2人、女性2人に分かれ、それぞれ迎えに来ていた家族に案内されて、それぞれの家庭に向かいます。
私と関戸さんはアブゾール(Обзор)さんという家庭を訪問することになりました。ご主人はニコライ(Николай)といい、教会広場に比較的近いところにある小規模な酒造会社の技師で、奥さんはスヴェトラーナ(Светлана)といい、民族アンサンブルのダンス教師です。子どもは3人でそれぞれアレクサンドル(Александр)、タチヤーナ(Татьяна)、ジェーニャ(Женя)といいます。
アブゾールさんの家は、レーニン広場にほど近い集合住宅にありました。外見は例によって汚いですが、中の部屋は大変きれいで、近代的でした。ハイビジョンテレビはあるし、お風呂の代わりに最新式のシャワーボックスがありました。また部屋には日本人形などが多く飾られていました。出された料理は、以前のように食べきれないほどではなく、比較的質素でしたが、大変おいしかったです。アレクサンドルとタチヤーナは、ほとんど入れ替わりで街に遊びに出掛けたので、両親と一番下のジェーニャとの交流になりました。知っているロシア語を総動員しての会話でしたが、難しいことを言おうとして、途中で立ち往生することはたびたびでした。その他、子どもたちが出演している民族アンサンブルのビデオも見せてもらいました。
食事が終わってもまだ外は大変明るいので、車で街を案内してもらいました。特に目新しいところでは、ハバロフスク南部で、住宅開発が目覚ましいことです。
あちこちにタワーマンションや大きなマンションができ、また建設中です。そして道路もよくなりました。高速で走ってもほとんど揺れません。同じく南部にはウスリー河沿いに大変大きくて新しいアリーナができていました。周りには広いスペースの広場があり、ローラースケートもできる広いトラックもありました。また別の場所には大きな商業施設もあり、ハバロフスクの新都心といった感じがしました。
~つづく~
(田中)