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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第116回 モスクワ公ユーリーとの対決

ウズベク汗  大公ミハイル二世がノヴゴロドの人々と攻防を繰り広げている間に、モスクワ公ユーリーは汗国に二年間滞在し、多くの成功を得た。というのも、ウズベク汗は、自分にとってどちらか好都合な者か、大公ミハイル二世とモスクワ公ユーリーとを天秤にかけていたが、ミハイル二世がノヴゴロド討伐にあたって自主自立の動きを見せたことにより、ミハイル二世の方を排除するべく動き出したからであった。そのような訳で、ユーリーはウズベク汗の信頼を得て汗の妹コンチャカと結婚し、ウラジーミル大公国の勅書を手に入れた。

 1317年、ユーリーはタタールの大軍と汗の使者らを引き連れてルーシに帰国した。この汗の使者は、ユーリーを大公位に就かせる公の儀式を遂行するべくやって来た者たちであった。一方、ミハイル二世の方は、モスクワ公の新しい地位については何も知らなかった。彼は、ユーリーがトヴェーリ公国を荒廃させるためにやって来たのだと合点し、スーズダリの諸公と彼らの従士団を引き連れてユーリーの方へ進軍していった。両軍は合間見えると、かなり長い間、コストロマ付近のヴォルガの両岸に駐留した。そして、汗の使者の内の年長者であるカヴガディ公との談判から、ミハイル二世は事の実情を知ることとなった。ウラジーミル大公国の勅書が自分のいとこの息子に渡されたのは、ミハイル公にとってまったく予期しなかったことであったが、彼はそれまで一度も汗の意向に背いたことはなく、この度も背くつもりはなかった。しかも、ミハイル二世は前年にノヴゴロド遠征から這う這うの体で帰還したばかりであり、ユーリーに抵抗できるだけの十分な数の兵士も自らのところにそろっていなかった。結局、大公位の称号をモスクワ公ユーリーのものと認めた彼は、自らの世襲地であるトヴェーリへ戻っていった。

三浦清美著『ロシアの源流』(講談社選書メチエ)より  しかし、このような結末は新大公ユーリーを満足させなかった。なぜならば、トヴェーリ公(ミハイル二世)の軍隊を徹底的に粉砕することができなかったからである。ユーリーはコストロマに残り、トヴェーリ遠征のためのさらなる軍隊を集結させ始めると、ノヴゴロドにはトヴェーリの地を北方から叩く提案を携えた使者を差し向けた。ミハイルはこの計画を知り、ユーリーとノヴゴロドという二つの敵をそれぞれ別々に攻撃することに決めた。今や彼は自分の世襲領地を守っているのであり、いかなる疑問も彼を襲うことはなかった。

 初めにミハイル公はノヴゴロドを打ち負かし、ノヴゴロドの人々は彼と和解することを余儀なくさせられた。というのも、ミハイルのもとにはノヴゴロドの貴族らがまだ人質として全員残されていたからである。その後すぐに、ミハイルは軍隊と共に、十分に防御を施したトヴェーリの地に落ち着いた。ついその前までミハイルの同盟者であったスーズダリの諸公は、自分たちの土地の破壊を避けるために新大公側へ移ってしまっていた。ミハイルは自分の軍隊だけでユーリーと事を構える決心がつかず、ユーリーに勝利した場合、ウズベク汗の目に自分が危険な反抗者、親族の仇と映ることを危惧していた。

 次回は「ユーリーとカヴガディ、共に謀る」。乞うご期待!

文:大山・川西
画像上:ウズベク汗(likeforvou.likeforvou.ruより)
画像下:三浦清美著『ロシアの源流』(講談社選書メチエ)より

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