
◆ 第114回 大公ミハイル二世の敵対者たち
ユーリーが治めるモスクワを占領しようと試み、失敗をこうむった大公ミハイル二世は、次にニージニー・ノヴゴロドへ目を向けた。というのは、ニージニー・ノヴゴロドを占領すれば、オカ川流域にあるすべての都市が勢力範囲に入ることになるからであった。そこには、モスクワの地も入った。
ところが、ミハイル二世はトヴェーリを不在にする決心がつかず、1311年に彼の12歳の息子ドミートリーと幾人かの経験豊かな軍司令官を軍隊の長とすると、彼らをニージニー・ノヴゴロドに向けて進軍させた。大公が差し向けたこの軍隊は、ウラジーミルで府主教ピョートルによって行く手を遮られた。府主教ピョートルは、遠征に赴こうとする軍隊にはなむけの言葉を与えなかっただけでなく、遠征そのものを許そうとしなかった。それに対して、ドミートリーの方は「府主教ピョートルに嘆願して」、軍隊と共に「ウラジーミルに三日間駐留した」とはいえ、最高聖職者の権力に背くことはできず、「軍隊を逆戻りさせるしかなかった。」
話は変わるが、この頃、大公とノヴゴロドとの関係は徐々にほころびを見せていた。モスクワ公ユーリーはこの機にノヴゴロドの人々に対する自らの影響力を広げようとしていたが、公けにミハイル二世と衝突することは避け、ノヴゴロドでの自身の地位をまず固めることに専念した。その後の諸事件から判断すると、ノヴゴロドの人々もこの状況を利用し、二人の公の支配から脱しようともくろんで、双方に対して陰謀を画策していたようである。しかしながら、1312年に大公はノヴゴロドから自分の代理人らを呼び戻すと、ノヴゴロドと戦いを交え、トルジョークとベジェツキー・ヴェルフを占領した。しばらくして、双方は和平を結ぶこととなった。
翌1313年、キプチャク汗国ではウスベク汗が即位した。ルーシ諸公は従来通りに、以前の勅書を確認するために、あるいは新たな勅書を得るために、高価な贈り物を携えて新しい大汗のもとへ向かった。この機に乗じ1314年早々、ノヴゴロドの人々は民会において大公の代理人たちの追放と、モスクワ公ユーリーを自分たちの公として招くことを決定した。ユーリーは無論のこと、ノヴゴロドの公位に就くことを承知した。このことが、ウスベク汗のもとへ出立するのが遅れた良い言い訳になったのだから、なおさらであった。
しかし、ユーリーによるノヴゴロド公国の統治は長くは続かなかった。ミハイル二世は汗国で精力的に動き回り、大公国とノヴゴロド統治のための勅書を得ると、1315年にタタールの軍隊を引き連れてルーシに帰還した。これは、大公の意向を重んじず、勝手気ままにふるまうノヴゴロドの人々をおとなしくさせるためであった。一方、モスクワ公ユーリーはウスベク汗によって汗国へ呼び出された。
次回は「ノヴゴロドとの闘争」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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