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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第115回 ノヴゴロドとの闘争

現在のトルジョーク  大公ミハイル二世は、自身に反抗的なノヴゴロドを懲罰するために、幾つかの分領公国の連隊によって自らの従士団を強化すると、1315年にタタール軍を率いて進軍していった。一方、ノヴゴロドの義勇軍はトルジョークの近くですでに六週間も大公を待ち受けていたが、大公に関する確実な情報を集めることができず、適切に迎え撃つことができなかった。トルジョークへ行く途中幾つかの郷を破壊したミハイル二世の軍隊は、2月10日、ノヴゴロドの義勇軍を撃破し、捕虜としてモスクワ公ユーリーの兄弟アファナーシーを捕らえた。その後、彼はノヴゴロドと和平を結んだが、この和平に基づいて、ノヴゴロドの人々は5000グリヴナ(およそ銀2045キログラム)の支払いの義務を負った。ノヴゴロドの人々がそれらを全額払うまでの担保として、多くのノヴゴロドの貴族がトヴェーリに護送された。双方の軍隊が衝突する戦場となったトルジョークでは、さらに住民から金品が巻き上げられ、馬と武器が取り上げられ、町の要塞が破壊された。これらに加えて、大公はトルジョークからノヴゴロドの地への穀物の運搬供給を止めるよう命令した。

イリメニ湖とその周辺  この後しばらくしてノヴゴロドの使者が汗国に向かった理由を諸史料は伝えていないが、十中八九、ミハイル二世のことを訴えるためであったろう。しかしながら、この使者はトヴェーリの人々に捕えられてしまった。ミハイル二世に抑圧されたノヴゴロドでは1316年に騒動が始まり、市民の内の大公支持者が数人殺害され、大公の代理人は町から立ち去ることを余儀なくされた。これを受けてすぐにミハイル二世は全下流域から軍隊を集め始めたが、ノヴゴロドの方もすべての郷から義勇兵が集まり、強大な軍となった。大公の軍隊はイリメニ湖の方向へ向かってノヴゴロドの地を進んだが、ノヴゴロドからおよそ5~10露里の地点で立ち止まってしまった。ミハイル二世はそこから先に思い切って進むことができなかった。それには理由があった。第一に、彼が予期していた以上に、ノヴゴロドの人々が強大な軍隊を集めることができたため。第二に、汗国にいるモスクワ公ユーリーがトヴェーリを襲撃しようとしているとの知らせを、使者がもたらしたため。それに加えて、大公自身がすっかり病みついていた。こうした次第で、ミハイル二世の軍隊は撤退したが、その帰途、軍隊は道に迷い、湖沼地帯に入り込んでしまった。さらに食糧が足りなくなり、体力を温存するために武器や装備品の一部を廃棄するはめになった。こうして彼らはトヴェーリへ帰還した。トヴェーリのミハイル二世のもとに、ノヴゴロドの主教ダヴィドが人質を買い戻す提案をたずさえてやって来たが、大公はノヴゴロドの貴族を解放しようとはしなかった。おそらく彼は、近い将来にモスクワ公ユーリーと対決せねばならないと感じ、この人質らを何らかの形で利用しようと考えていたにちがいない。

 次回は「モスクワ公ユーリーとの対決」。乞うご期待!!

文:大山・川西
画像上:現在のトルジョーク(www.art-eda.infoより)
画像下:イリメニ湖とその周辺(karhukallio.livejournal.comより)

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