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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第73回 モンゴル軍による蹂躙

1237年のモンゴル軍による包囲

 前回の事件の詳細をさらに見ていこう。すでに言及したように、南方のルーシ諸公は、モンゴル人の最初の襲来に特別な危機感を持っていなかった。だが、トロペツのムスチスラフたっての願いによって、キエフにルーシ諸公が集まった。そして一つの問題――力を合わせてモンゴル人に先制攻撃を与えること――が検討された。新たな脅威を深刻なものと受け止めていたのは、少数の者だけであった。大公ユーリー二世も先見の明がないか、あるいは事情に精通していないことが明らかとなった。彼は援軍としてロストフの軍隊を差し向けることを約束したが、指定された時刻と集合場所にその軍隊は現れず、ルーシの従士団は援軍なしでモンゴル人に向かって出動することとなった。ステップにおける最初の小競り合いは上手くゆき、遊牧民は敗走した。その時戦闘に加わったのはモンゴルの大軍隊のわずかな部隊に過ぎなかったことも知らず、ルーシの軍隊は追撃を始めた。一方、モンゴル人のもとへは増援部隊がすばやくやって来た。1223年5月31日、アゾフ海沿岸近くのカルカ河畔において、ルーシの軍隊は完膚なきまでに粉砕された。一万以上の戦士と、名門の出の六人を含む多くのルーシ諸公が戦死した。モンゴル軍に北方への道が開かれることとなる。モンゴル人は屍の山と焼け跡を後にし、キエフからおよそ100露里のところにあるドニエプル川のほとりのヴィチチェフ近くにとどまった。だが、この年は、彼らはそれ以上ルーシには侵入しなかった。カルカ河畔における会戦はモンゴル人にとって、他の地への道中における単なる偶発的なエピソードに過ぎなかったのである。

 1237年の冬、チンギス汗の年長の孫であるバトゥ汗の大軍が、今やすでにはっきりした目的を持ってリャザン公国の地へ侵入した。ユーリー二世を含むルーシ諸公は、カルカ河畔における敗北にしかるべき深刻さをもって臨んでいなかった。言うまでもなく、ルーシ諸公間の不一致と個人的な相互の非礼は、それ相応の影響を及ぼしていた。全ルーシの地を守るための措置を取らねばならない大公ですら、リャザンを援助することを拒んだ。リャザンの従士団は死に物狂いで戦ったが、モンゴル軍の兵士数は経験豊かな戦士の想像力を超えたものであった。12月21日、6日間の包囲の後リャザンはとうとう陥落し、続いて公国全体が焼き払われ、略奪された。その後、モンゴル人はモスクワに向かったが、その道中、戦わずして降伏した移住地や都市をも略奪し、焼き払っていった。捕虜となった成年住民は、奴隷として売り払われるために取っておかれ、残りのすべて――子供から老人まで――は容赦なく皆殺しにされた。そして、モンゴル人に向かって出撃したユーリー二世の軍隊は、コロムナ近くで殲滅されたのである。

(大山・川西)



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