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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第83回 勅書を求めて

大汗グユク

 スヴャトスラフは、ムーロム公ダヴィドの娘であるエヴドキヤと結婚した。彼女はまだ夫が在命中に、修道女になるための剃髪式を受け入れたいと欲し、1228年にムーロムの修道院の一つへ入った。

 大公ヤロスラフ二世が亡くなる頃には、モンゴル帝国は四つのウルスに分裂していた。それら四つのウルスの支配者は、名目上はカラコルムにある大本営に従うことになっていたが、実際はあらゆる手を尽くして大汗のグユクからの独立性を強調しようとしていた。このため、ルーシ諸公はかなり複雑な状況に陥っていた。カラコルムにいる大汗はルーシ諸公に公国統治のための勅書を手渡すのであったが、そのカラコルムの地までは、何ヶ月にも渡る道のりがあった。勅書を手に入れるためにその行程を旅している間、キプチャク汗国の大軍がカラコルムにある本営のいかなる許可も持たずに、ルーシの地を蹂躙し滅ぼし尽くすこともあり得たのである。

 1246年にヤロスラフ二世がカラコルムからの帰還中に亡くなった後、彼の息子であるアレクサンドルを迎えにやる急使がカラコルムから疾駆してきたが、アレクサンドルは急いでモンゴルへ出立しようとはせず、1247年の末に弟のアンドレイを連れてようやく出発した。アレクサンドルにはおそらく、父親がじわじわと効き目を発する毒によって毒殺されたとみなす根拠があったのであり、父親の運命を繰り返すことを恐れたのである。

 その間、カラコルムからの独立性をひけらかしたいキプチャク汗国は、即座にスヴャトスラフへ大公国統治の勅書を手渡した。彼は大公スヴャトスラフ三世になるや手始めに、甥たちに分領地を分け与えた。彼らの一人である前大公ヤロスラフ二世の息子、ミハイルは、年代記の中で彼がモスクワ公と呼ばれていることから判断するに、モスクワを分領地として付与された。1248年、どのような理由からかは分からないが、ミハイルは従士団と共に彼の叔父であるスヴャトスラフ三世をウラジーミルから追放し、自らが大公位に就いた。ミハイルは自分の兄のアレクサンドルやアンドレイがすぐにはモンゴルから帰還しないであろうことを知りつつ、また彼ら兄たちが大公国統治のための勅書を持ち帰るであろうことも知りつつ、まったく無断でウラジーミルを占拠しようと決意したのである。しかしながら、運命は彼には微笑まず、同年彼はリトアニア人との戦いで非業の最期を遂げた。

モンゴルの草原

 その後、スヴャトスラフ三世は正当に自分のものとなった空位のウラジーミル大公位に決して就こうとはしなかった。ただ1250年、甥のアンドレイがウラジーミル大公国統治の勅書を携えてカラコルムから帰還したほんの数ヵ月後に、スヴャトスラフ三世は息子を連れてキプチャク汗国へ旅立った。汗は敬意を持って彼を出迎えたが、大公を復権させることはしなかった。

 1252年2月3日、スヴャトスラフ三世はユーリエフ・ポーリスキーにて逝去した。彼は亡くなる前に、修道士になるための剃髪式を受け、その町のユーリエフ聖堂に埋葬された。

 次回は「アンドレイ二世即位(統治1248-1252)~偶然手にした大公位」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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