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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第125回 窮地に立たされた大公ユーリー

ボルチェネヴォの会戦に捧げられた記念碑  トヴェーリ公ミハイルはノヴゴロドからの襲撃を待つつもりなどなく、トルジョークに向かって進軍し、ノヴゴロドの軍隊を撃破、彼らに強いて和平を結ぶと、今度はミハイル自ら退却し、十分に防御態勢の整ったトヴェーリに籠城した。同じ頃、ユーリーとカヴガディはトヴェーリの地の右岸の一部を踏みにじり、ヴォルガ川を渡る準備をしていた。そこを渡れば、中立の立場を取っていたカーシンの町があった。しかしながら、今や破壊が彼らの郷に迫っていることを知ったカーシンの人々は、従士団と義勇兵を集めてトヴェーリへ向かった。ミハイルは大公ユーリーの連合軍に対して、すぐには遭遇戦をしかける決意がつかずにいた。

 1317年12月、トヴェーリから40露里のところにあるボルチェネヴォ村近くにおいて、大公ユーリー側は壊滅的な敗北をこうむることとなった。彼の妻と息子ボリス、多くの貴族と公たちがミハイルの捕虜となった。カヴガディはこのような事態を受けて降伏を宣言し、自身の部隊の残党らと共にミハイルによってトヴェーリに招かれて、そこでしばらくの間名誉ある捕虜として過ごすこととなった。一方、ユーリーは少数の従者を連れて戦場から逃走することに成功した。彼の行く道はノヴゴロドへ向かっていた。ノヴゴロドの人々にはトヴェーリ公ミハイルとの休戦協定を破れない理由が幾つかあったが、大公でしかもウズベク汗の親戚に対しても援助をきっぱりとは断わることはできなかった。そもそもノヴゴロドの人々は、モスクワと同じくトヴェーリも力を増大させることに不満であったのであり、彼らはユーリーとミハイル間の交渉の仲介役ということでこの紛争に介入することにした。1318年の春、ヴォルガ川の岸辺で三者間の交渉が行われ、公たちは汗の裁きを受けるため汗国へ自発的に赴くことが決定された。ミハイルはその上、ボルチェネヴォの会戦におけるすべての捕虜を解放することを誓約し、その約束を実行した。ところが、交渉が行われている間にトヴェーリの地で捕虜になっていたユーリーの妻が亡くなってしまった。それはミハイルのせいではなかった。

 ユーリー自身は望んでいなかっただろうが、彼はやっかいな状況に陥っていた。汗国では、汗の前でミハイルの過失の証拠を提示するよう求められるに違いなかったが、そういった証拠はなかった。ミハイルに非難すべき行為もなかったし、それゆえに、証拠もなかった。大公勢と戦いつつ、ミハイルは自分の世襲領地であるトヴェーリを守っていたが、それはルーシ人においてもタタール人においても何にもまして大切な事と考えられていた。しかも、ミハイルは勝利を収めたにもかかわらず、ユーリーと大公国勅書をめぐって争うようなことはせず、静かにトヴェーリに身を引いた。それでなくても、その数年前までミハイルは汗の意志に従順な者としてひときわ際立っていたのである。「汗の前でいかなる申し開きが自分にできるというのか」、、ユーリーは焦ったに違いない。

 次回は「大公ユーリー、カヴガディと陰謀を図る」。乞うご期待!!

 写真:ボルチェネヴォの会戦に捧げられた記念碑(panoramio.com/photoより)

(文:大山・川西)

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