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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第121回 モスクワ公ユーリー(後のユーリー三世/統治1317-1322年)の出自

モスクワ公ユーリー  1263年の末、大公アレクサンドル・ネフスキーは亡くなる前に、自分の息子たちに領地分割についての指示をなした。彼の最年少の息子ダニールが分領地として得たのは、モスクワとその周辺地域であり、当時ウラジーミル-スーズダリの地の西の境に位置したそれらの地は、人里離れた田舎町であった。後にこのダニールは、モスクワをルーシ国家の首都とした一族の創始者となった。そして名実共にモスクワ台頭のきっかけを作り、この一族の筆頭となったのが、ダニールの二番目の息子のユーリーである。

 1297年、ユーリーはロストフで地元の公の娘と結婚した。この結婚で息子は生まれなかった。ユーリーの娘たちに関する正確な情報はないが、幾つかの年代記には、トヴェーリ公ミハイル(ミハイル二世)の息子コンスタンチンの妻がユーリーの娘のソフィヤであったことが言及されている。

 1302年、ダニールの甥で子供のなかったイヴァン(アレクサンドル・ネフスキーの息子であるドミートリーの息子)が、死去する前に自分の世襲領地であるペレヤスラヴリ-ザレスキーをダニールへ遺言で遺した。ダニールは、そこを独立した公国として統治させるために息子ユーリーをすぐさま差し向けた。ところが、ダニールの兄である大公アンドレイ三世は、ペレヤスラヴリ-ザレスキーは自分の領地に加えられるべきだとみなし、軍事力をもって力ずくで町を占領しようと試みた。ペレヤスラヴリ-ザレスキーの人々はこの襲撃を撃退したが、翌年再度の襲撃を恐れて、統治者であったユーリーをその父親の葬儀にすら行かせようとしなかった。その頃までにユーリーの兄はすでに亡くなっており、今やユーリーは父ダニールの第一の後継者として世襲のモスクワ公となったのであり、さらにペレヤスラヴリ-ザレスキーをも獲得したのであった。

 1304年、大公アンドレイ三世が逝去した。一族における年長制に従って、大公位はトヴェーリ公であったミハイルへ移り、ミハイル二世となった。まさに彼は、北東ルーシの諸公の内の最年長者であり、その上、故大公ヤロスラフ二世の唯一の生き残っている孫であった。13世紀の半ばから、このヤロスラフ二世の子孫が、ウラジーミルを首都とする大公国の大公位を継承していたのである。1304年の後半、トヴェーリ公ミハイルは、大公国の勅書を受け取るためにキプチャク汗国へ出発した。

 このミハイル公はユーリーの父親であるダニールの従兄弟に当たり、ユーリーよりもほぼ十歳年上で、生き残っている一族の中でも共通の祖先であるヤロスラフ二世に最も近しい人物であった。このミハイルと、ユーリーが張り合うのはどのような観点からしても不可能なように思えたが、ユーリーはこの後、巧妙な手口でミハイルとの大公位争いに介入していくのである。

 次回は「キプチャク汗国へ赴くユーリー」。乞うご期待!!

写真: モスクワ公ユーリー(bankgorodov.ru/famous-person/より)

(文:大山・川西)

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