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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第117回 ユーリーとカヴガディ、共に謀る?

ボルチェネヴォ村近くでの戦闘

▲ 1317年12月、ボルチェネヴォ村近くでの戦闘(gorodskoyportal.ruより)

 トヴェーリへ進軍してきたユーリーを前に、ミハイル二世がもたついている間、ユーリーはトヴェーリ公国の右岸の部分を壊滅させ、左岸に渡ろうとしていた。しかしながら、この戦法がカシンの町をミハイル側になびかせることとなった。それまでカシンの人々は静観の態度を取っていたが、破壊の恐れが彼らの地にも迫ってきた今、カシンの男どもはトヴェーリに向かったのである。1317年12月、トヴェーリとカシンの人々は、トヴェーリから40露里のところにあるボルチェネヴォ村の近くで、ユーリーとカヴガディの連合軍に決定的な敗北をもたらした。そこで多くの兵士や貴族ばかりでなく、ユーリーの妻と息子のボリスもがミハイル側の捕虜となった。ユーリー自身はといえば、わずかな側近を連れて戦場からうまく立ち去り、ノヴゴロドへ向かった。

 事の顛末を見たカヴガティは、戦場の旗を下ろし、退却するようタタールの軍隊に命じた。カヴガディは、「ユーリーを助けはするが彼の代わりに戦ってはならない」と指示されていたのかもしれない。ミハイルにしても、カヴガディをこれ以上追い詰め、汗国側に敵対感情を吹き込むことになるのは避けたかった。翌日、ミハイルはカヴガディの野営地を訪れ、和解し、カヴガディの全部隊をトヴェーリに招いて、そこで大きな敬意をもって遇した。

 その間、大公ユーリーは、トヴェーリの地に進軍するようノヴゴロドの人々を扇動していた。しかし、ノヴゴロドの人々にとっては、ミハイルとユーリー、どちらの公が強大になっても困るのであった。それでも、双方間の交渉の仲介役を引き受けることにノヴゴロドは同意し、1318年の春、ヴォルガ川の両岸において、ミハイルとユーリーの両者は自発的に汗の裁判を受けに汗国へ赴くことが取り決められた。とはいえ、ミハイルはユーリーの大公国勅書に異議を唱えていなかったので、そのような必要は実はまったくなかったのであるが。しかしながら、ミハイルはこの案に同意した。そしてまた、ウズベク汗の苛立ちを幾らかでも消すために、彼は次のような条約にも同意した。すなわち、捕虜の内からユーリーの親類、ノヴゴロド人、モスクワの諸公と貴族を釈放すること、ノヴゴロドからの身代金5000グリヴナの放棄、穀物を積んだ輸送隊をノヴゴロドへ返すこと、などである。

 ところが、双方の交渉が進んでいる最中、トヴェーリで捕虜になっていたユーリーの妻、コンチャカが急死してしまった。コンチャカは病死であったが、ミハイルに敵意を持つ者たちが、ミハイルの指示によってウズベク汗の妹は毒殺されたのだと言いふらした。ミハイルはそれでなくても、ボルチェネヴォの戦いで残兵が戦場から立ち去る前に、幾人かのカヴガディの兵士を切り殺しており、汗国に対して少なからぬ過失を犯していた。反対に、ユーリーは千載一遇のチャンスを得たのであった…。

 次回は「ミハイル二世(トヴェーリ公)に忍び寄る危機」。
 乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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