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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第119回 汗の裁判

死刑宣告を受けたミハイル公 挿絵:死刑宣告を受けたミハイル公(liveinternet.ruより)

 ユーリーとカヴガディの暗躍がささやかれる中、汗国への出立を決めたトヴェーリ公ミハイルは、自らの悲劇的な死を覚悟してか、“心の手紙(遺言書)”を作成した。これはロシア史上最初に確認することができる書面の遺言状であり、諸史料にその証拠が残されている。時代が下ると、イワン・カリターや他のモスクワ大公らも汗国へ出発する前に同じような“心の手紙”を書くようになった。

 1318年9月の初め、ミハイル公は、アゾフ海沿岸のドン川河口近くにある汗の本営の一つにて、ウズベク汗の前に姿を現した。本営に到着したミハイルは、汗の裁判までしかるべき敬意を払って扱われた。ミハイルは慣例通りに、まず汗の諸公と彼らの妻に贈り物をし、その後、汗と汗妃に贈り物を捧げた。だが、遅かった。ユーリーとカヴガディは、汗の側近の幾人かを自分たちに同調するよう仕向け、さらにユーリーは、ミハイルの贈り物よりもさらに上等な贈り物を諸公や汗に贈った。ユーリーの側にはノヴゴロドが付いていたので、ユーリーにはそれが可能であった。

 一ヵ月半後に汗の裁判が行われた。汗側の高官としてカヴガディ公も出席し、彼は糾弾者と裁判官という二つの役目を務めた。すでにモスクワでは数多くの告発書が準備されてきており、ミハイルは「皇帝宛の貢物を汗国へ送らず、皇帝の使者に敵対して戦い、ユーリーの妻を殺した」かどで死刑を言い渡された。すべて仕組まれた茶番劇であり、トヴェーリ公ミハイルに無罪判決を下す流れには到底ならなかった。だが、ウズベク汗はミハイルの有罪に疑惑を抱き、彼はさらにもう一つの公判を定めた。さらに一週間後、公判が開かれ、裁判官全員が再びミハイル公の死刑に賛同した。こうなるとウズベクは判決を承認する以外なかった――汗国の法律はこのようなものだった。

 その翌日、汗国の諸公の居合わせる場でミハイルは腕に枷をはめられ、首には木製の重い丸太をくり抜いたものがつけられた。これは侮辱を意味した。しかし、それでもなお、ウズベク汗はミハイルの死刑遂行を決して急ごうとはしなかった。そうこうしている内に、汗国はイランを支配するモンゴルの汗、アブサンドに対する遠征の準備を終えた。ここまでくると、処罰なしでトヴェーリ公を放っておくことはもはやできなかった。なぜならば、ルーシの諸公はこれを自分たちに有利に解釈し、タタール人の遠方への遠征を利用して暴動を起こすこともあり得たからである。とはいえ、ウズベク汗はやはり判決の公正さに何らかの疑念を抱いていたのであろう。彼はミハイルのために個別の旅行用幌馬車を用意し、ミハイルの幾人かの従者と共に軍隊の後の列に続くよう命じた。道中、ミハイルの召使たちは再三逃げるよう公に勧め、逃走用の馬も準備し、案内人も見つけていたが、ミハイルは汗国へ出立した理由と同じ理由から、最後まで逃走することを拒んだのである。

 次回は「トヴェーリ公ミハイルの非業の最期」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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