
◆ 第120回 トヴェーリ公ミハイルの非業の最期
汗の裁判にて有罪の判決を受けたトヴェーリ公ミハイルが非業の最期を遂げたのは、1318年11月22日であった。モンゴルの汗アブサンドを打ちのめすために進軍していた汗国の軍隊がデルベントの近くに逗留していた時(この遠征にミハイルも連行されていた)、彼は自らの死刑の執行日を知った。おそらく、この遠征の間にカヴガディとユーリーは根気強く汗に立ち回り、死刑執行の了解を取り付けたのだろう。その日、ミハイルは自分の天幕の中で早朝の祈祷を行うよう命じ、彼の従者であるかつての修道院長に懺悔し、聖体機密(パンとブドウ酒を食すること)を受けた。その後、息子のコンスタンチンを呼び出し、彼に最後の指図と教示を与えた。それから座って聖詠経(旧約聖書の詩篇に相当する)を読んだ。しばらくして下級従士が駆けつけ、ユーリーとカヴガディ、それに他の多くの者たち天幕に向かって来ていることを告げた。ミハイルはとうとう自らの死期が迫ったことを理解した。彼の天幕の中に大勢の者たちが乱入し、公の数少ない従者を追い払い、ミハイルを打ちのめした。続いて、彼らの一人がミハイル公の胸に大きなナイフを突き刺し、心臓をえぐり取った。さらに公の天幕にあった諸々の物は略奪され、公の従者は丸裸にさせられて枷がはめられた。ミハイルが、援助の約束を取り付けていた汗妃のところへ差し向けた息子コンスタンチンと共に逃げた少数の者だけが、捕えられずに救われた。その場にいたユーリーとカヴガディはこの制裁に自ら手を下そうとはせず、ただ公の死を告げられた後に、ミハイルの裸の遺体に近づいた。
公の亡骸は服を着せられて普通の荷馬車に寝かせられ、さらにロープで固く結びつけられて、モスクワの貴族に伴われてルーシへ送られた。その帰路で通過する土地に宿泊する際に貴族らは、慣わしを無視して、公の遺体を教会に安置することも、しかるべき祈祷を行うことも許可しなかった。そして、その遺体をある時は家畜小屋にすら放置した。モスクワに到着しても特別な儀式が行われることもなく、その遺体は救世主修道院へ安置された。その翌年、大公ユーリーが汗国から帰国すると、ミハイルの未亡人と息子たちは非常に苦労してユーリーに懇願し、ミハイル公の改葬の許可を得た。
1319年9月の初め、およそ殺害から一年後、ミハイル公の遺骸が彼の世襲領地のトヴェーリに返還され、しかるべき敬意を払われてその地の救世主教会に埋葬された。公が自分の命を犠牲にしてトヴェーリの地を荒廃から救ったために、民衆は彼を「Отечестволюбец(祖国を愛する者)」と呼び、ロシア正教会は彼を聖人の列に加えたのである。
次回は「モスクワ公ユーリーの出自」。乞うご期待!!
写真:聖体機密の際に用いられるもの(blogs.yahoo.co.jp/lutheran_alonegraceより)
(文:大山・川西)
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