
◆ 第122回 キプチャク汗国へ赴くユーリー
その当時のルーシの伝統によれば、息子たちが大公国や公国の統治権を要求することができたのは、彼らの祖父や曽祖父ではなく、まさに彼らの父親自身が統治していた町に対してのみであった。したがって、ユーリーがウラジーミル大公位をめぐってトヴェーリ公ミハイルと張り合うことができるのは、彼の父親が自分の兄であった大公アンドレイ三世よりも長生きし、尚且つ大公位に就けた場合に過ぎなかった。しかし、ユーリーの父親ダニールはアンドレイ三世よりも早くに亡くなり、当然のことながらウラジーミルを治めることはなかった。そのため、ユーリーがウラジーミル大公となれる唯一の方法は、公正でないやり方で汗国の汗の好意を得ることだけだった。野心家であったユーリーはこのことを、二回の試みによってなし遂げることとなる。
ユーリーは、大公国勅書を受け取るために汗国へ出発したトヴェーリ公ミハイルの後を追った。
ウラジーミルの地において府主教マクシムは、内紛を避けるために、ユーリーが汗国へ向かうのを思いとどまらせようとした。彼は教会の最高権力の名をもってして、ユーリーに出立を禁じようとしたのである。しかし、ユーリーは、汗国へ行くのは勅書のためでなく自分の用事によるものだと語り、強引に旅を続けた。トヴェーリの人々は、ユーリーがまだスーズダリの地にいる時に彼を阻もうとしたが、彼はトヴェーリの人々の追跡からも逃れることができた。
汗国では、大公国に関する問題はトヴェーリ公ミハイルに有利に解決された。しかしながら、汗国の公たちは後にユーリーに、「もしあなたがミハイルよりもさらに多くのお金や贈り物をしていたなら、大公国の勅書はあなたのものだっただろう」と、包み隠さずにささやいた。
ミハイルとユーリーの双方が汗国で重要な問題を解決している間、領地運営のために残っていた彼らの貴族も手をこまねいてはいなかった。トヴェーリの軍隊はペレヤスラヴリ-ザレスキーを占領しようと試みたが、ペレヤスラヴリ-ザレスキーにモスクワから援助部隊が駆けつけ、トヴェーリの従士団に大きな損害をもたらし、トヴェーリ側は退却を余儀なくされた。大公国勅書を得て帰国し、正式にウラジーミル大公となったミハイルにとっては、ユーリーの根拠なき大公位要求も、モスクワ軍による自軍の敗退も、腹立たしいことこの上なかった。1305年と1308年の二度に渡って、ミハイル大公はモスクワ遠征に着手したが、どちらの時もユーリーは首尾よく攻撃を撃退した。その後、両者の間でどのような条件が結ばれたのかは不明であるが、彼らは和睦し、数年の間モスクワとトヴェーリの間に争いごとはなかった。
リューリック朝系図
次回は「ユーリーの野望」。乞うご期待!!
(文:大山・川西)
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