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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第74回 ルーシの地の壊滅

 モスクワが陥落した後、次いでウラジーミル公国に現実的な脅威が差し迫ることとなった。大公ユーリー二世はウラジーミルの地に従士団の大部分を残し、新たな軍隊を集めるためにヤロスラフの地へ発った。だが、時はすでに遅し、膨大な数の兵士を有するモンゴル軍は、その先頭部隊が眼前の道に横たわるすべてを掃討しながら突き進み、続いて第二軍がすでに無防備となった領地に火と剣の嵐を浴びせるといった具合であった。1238年2月7日、モンゴル軍はウラジーミルの城内に攻め込み、翌日首都は炎上した。住民は捕虜として連れ去られるか、あるいは切り殺され、焼かれた。高価なものは運び出され、町は破壊された。住民の一部は大公の家族と共に主教座のウスペンスキー寺院に閉じこもったが、生きたまま焼かれた。首都占領後、モンゴルの主力軍はさらに北方へ進んで大公ユーリー二世を戦死に追いやることとなった。また、第二軍は東方へ進んで多くの町を攻めつつ、コストロマを目指した。そして、第三軍はペレヤスラヴリ-ザレスキーを陥落させた後、何隊かに分かれ、その内の一隊はトルジョークを落とした。こうしてウラジーミル大公国は徹底的に破壊された。

 詳述するに、2月の末、モンゴルの主力軍は大公が兵力補充した軍隊とシチ河畔で衝突、その決戦は3月4日に行われた。年代記作者らは次のように指摘している、「偉大な会戦があった、それは忌まわしい戦であり、雨の如くに血が流れた」と。ルーシの軍隊は決死の覚悟で立ち上がり、大公を含むほぼ全員が戦死した。その後、ヴォルガ川下流へ向かう道すがら、モンゴルの大軍団はルーシの地の破壊を完遂した。

 ユーリー二世の遺体は最初ロストフに埋葬されたが、翌年、弟の新大公ヤロスラフ二世が兄の遺体をウラジーミルの地へ運び移し、生神女ウスペンスキー聖堂に埋葬するよう指示した。

 モンゴル軍侵入によって、ルーシの地はどれほどの打撃を受けたのであろうか。

 考古学者によれば、74の都市の内、49がモンゴル軍によって破壊され、その内14は復興することなく、15が村となったという。農村の被害も甚大であった。農民は家屋と畑を捨てて安全な場所へ逃れた。居住地が大幅に減少し、北東ルーシでは30~50パーセントが、南西ルーシでは50~60パーセントが廃墟となった。人的被害もひどいものであった。数多の手工業者が生命を奪われ、あるいは捕虜として連れて行かれた結果、技術が失われたばかりでなく、生産がとだえてしまった。石造建築は場所によっては100年間、ノヴゴロドですら60年間おこなわれなくなった。ある学者は、ロシア手工業の発達が150~200年に渡って押さえ込まれたと主張している。それは真の大荒廃時代であった。

 次回は「壊滅を免れたノヴゴロド」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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