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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第75回 壊滅を免れたノヴゴロド

ノヴゴロドの市場

 タタール・モンゴルのくびきは周知のように、数世紀に渡ってルーシに重くのしかかった。しかし、シチ河畔での勝利の後も、その後の年も、モンゴル人は結局ノヴゴロドの地までたどり着くことがなかった。あるいは、彼らはたどり着こうとは欲しなかった。ある歴史学者は、1238年にノヴゴロドまで100露里のところでモンゴルの軍隊が停止した理由を、春の雪解けの泥濘期のためだったとして、漠然とこの事実を解明している。しかし、もっと重大な理由があったのかもしれない。

 その頃までに権威ある民会を有していたノヴゴロド公国は、おそらく最も広大で豊か、そして強大な領土を形成していたであろう。他のルーシの諸公国とは異なり、ノヴゴロドの人々は初めから自分たちのところでは、いかなる土地の分割も認めず、招聘した諸公に私有財産としての土地はもとより、不動産の所有すら許しはしなかった。ただ時々、特別な状況の場合、彼らに一時的な領地としてプスコフやトルジョーク、ヴォロク、ラムスキー、ラドガが与えられた。また公の意志にしたがってではなく、昔から定められた規則にしたがって生活する権利を守りつつ、ノヴゴロドの人々は自分たちの自由のために、他の土地の者たちといつも捨て身で戦った。モンゴル軍はトルジョーク占領の際に、このように固く団結した公国と、その屈強な兵士たちの底知れぬ強さを知ることとなった。だが、その時ノヴゴロドの主要な義勇軍はトルジョーク防衛に参加していなかったのであり、そのことを考慮してもモンゴル軍は、ノヴゴロドの地は、彼らが難なく自分たちの方法で掃討できた他のルーシの諸土地とはまったく異なるということを、感じざるをえなかったのである。

 それに加えて、ノヴゴロドの地を守るかのように厳しい自然が立ちはだかっていた。モンゴル軍が進んだ道には、スモレンスクからヴォルガ上流まで広がっていたオコフスキーの森があった。徒歩で戦わず、騎兵隊を組むモンゴル軍にとっては、多くの川や小川、沼を含むかくも強大な北の森は、踏破不可能な森であった。もちろん、ルーシ人の捕虜を強制的に働かせて、森を切り開いて道を作ったり、丸太や枝を使って沼に橋をかけることはできた。しかし、モンゴル人はその時点で敵のルーシ人による丸太のバリケードなどに道をおびやかされ、ルーシ人がそのようなバリケードを林道にすばやく容易に作れることを知っていた。そして自分たちがそれらを取り壊すことは、おそらく迂回して新たな道を切り開くことよりもさらに困難であろうことをも理解していた。こういったあらゆる状況によって、ノヴゴロドの地を彼らはさしあたって放っておいたのだろう。さらにその後、ノヴゴロドの人々は、自分たちなりの方法を見つけ出した。タタールの部隊がノヴゴロドの国境に近づくとすぐに、汗国の汗とその高官たちに豊かな贈り物が、そして汗国の国庫にはかなりの代償金が送られたのである。

 次回は「♪ブレイクタイム♪ ロシア中世文学」。
 乞うご期待!!

(大山・川西)



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