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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第85回 大公位をめぐる兄弟の攻防

キプチャク汗国の汗の本営

 アンドレイ二世の政治家としての手腕は、年代記作者らに決して高く評価されてはいない。年代記の中では、アンドレイ二世の軽率さが指摘され、また、彼が豪華絢爛な儀式ばかりに重きを置いていたことが暗に物語られている。大公は国務よりも狩りに多くの時間を割き、国務においては、人生経験を積んだ年配の貴族たちよりも、若い側近らの意見に耳を傾けがちだった。またアンドレイ二世は、不都合な状況をよく引き合いに出し、それを国務が滞っている言い訳としていた。

 1250年、ウラジーミルにおいて、南ルーシの最も有力な公の一人であるガーリチ公ダニールの娘と、大公との婚礼が執り行われた。妻はアンドレイに三人の息子――ユーリー、ヴァシーリー、ミハイル――を生んだが、彼女の名前は諸史料には記されていない。

 ガーリチ公ダニールは、いかなる状況にもかかわらず、自分を汗国の貢納者として認めないことで有名であった。アンドレイ二世もやがて舅と同じ見解を分かつようになったことは十分に考えられる。諸史料は、汗国に対するアンドレイ二世の不服従を伝えてはいないが、その代わり、1252年に彼の兄アレクサンドルがキプチャク汗国のサライ-バトゥ(バトゥが建てた都)に出発したことに触れている。高齢のバトゥ汗に代わって、汗国を事実上統治していたのは、彼の息子のサルタクであった。アレクサンドルはサルタクに、弟のことを訴えた。それは、弟が貢税を完全に払わず、その上、一族の年長制に反して彼が大公位に就いているというものだった。すでに述べたように、アンドレイ二世は大公国統治の勅書を大汗のいるカラコルムで受け取ったのであって、サルタクは、キプチャク汗国の大汗からの独立性を強調するこの機会を逃しはしなかった。サルタクは、貢税支払いの不完全さの証拠などを求めようとせず、大公をキプチャク汗国に護送するよう命じた。サルタクの使者のすぐ後を追って、アンドレイ二世が服従しなかった場合に備えて、ネヴリュイ汗の指揮の下、軍隊が出動した。一方、兄のアレクサンドルは、弟アンドレイに対する汗の裁きはまだ下されていなかったとはいえ、大公国統治の勅書をサルタクから受け取った。

 ちなみに、この時代、キプチャク汗国は、ヴォルガ下流域を中心に黒海沿岸からアラル海方面にまでひろがるキプチャク草原、クリミア半島、北カフカース、旧ヴォルガ・ブルガール領、またホラズムの中央アジア部分などを含んでいた。

 次回は「去り行くアンドレイ二世」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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