特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会

ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第127回 敵対者を一掃したユーリー

現在のリャザンの町  ルーシの年代記作者たちは、大公ユーリーをトヴェーリ公ミハイルに非業の死をもたらした主犯者とはみなさなかった。ミハイルが殺害された後(1318年11月22日)、トヴェーリで書かれた『トヴェーリのミハイルに関する物語』の中ですら、ユーリーはただ暗いトーンで描写されているだけであり、このぶざまな事件全体の要であるのは、自らがトヴェーリの捕虜となった恥辱に対して復讐を遂げた汗の使者、カヴガディであるとされている。

 ミハイル公が亡くなった今、大公ユーリーが所有する大公国勅書の権威に抗う者は誰もいなくなった。ユーリーはミハイルの遺体を、自分の貴族に同伴させて質素な荷馬車に積むと、慣習に従ってミハイルの世襲領地であるトヴェーリに送ることをせず、しかるべく敬意を表しもしないでモスクワに埋葬するよう命じた。

 1319年の夏の初め、ユーリーは汗国で若い新妻を得、彼女を連れてルーシへ戻った。まず初めに、大公位に正式に就任するためにウラジーミルへ、その後は自らの世襲領地であるモスクワへと戻った。捕虜として彼に伴ったのは、処刑されたトヴェーリ公ミハイルの貴族、召使、そして彼の息子のコンスタンチンであった。この年、大公はノヴゴロドに代理人として自分の弟のアファナーシーを送り出し、トヴェーリと和睦し、ミハイルの遺体をトヴェーリに埋葬し直すことを許可した。その翌年、ユーリーはリャザン遠征をおこない、その地を服従させた。

 1321年、ユーリーはペレヤスラヴリ—ザレスキーに、「下流地方とスーズダリの全軍を」集結させ、トヴェーリにあるカシンの町へ進軍した。この軍事行動の背景には、当時の複雑な事情があった。おそらく、カシンの人々と、幾人かのトヴェーリ諸公は、貢税を払い残していたか、あるいは自分たちが汗国を訪問した際に汗国の諸公に借金をしていた。このようなことはよくある話だったが、問題は、トヴェーリの人々がこの借金を、大公を介さず、直接汗国へ返済しようとしていたことであった。ユーリーにとってこういった事態は、極めて都合の悪いものであった。第一に、汗国とのやり取りの際には必ず大公を介するという、既成の秩序が乱されつつあった。第二に、年少の諸公が汗国と直接接触することによって、汗国に関するより豊富な知識を彼らが持つことになってしまった。服従者が知っていることが少なければ少ないほど、彼らを統率することは容易であったため、ユーリーとしてもこのことは避けたかった。その上、大公ユーリーがトヴェーリと汗国の間のお金の受け渡しを仲介することによって、彼はいかなる努力も払わずに確実に、大公国の国庫へお金を補充することができた。ところが、トヴェーリの人々は仲介を回避しようとしたので、ユーリーは彼らに向けて軍隊を出動させたのであった。それは、その金額の重要性のためというよりも、むしろ他の諸公への教訓とさせるためであった。しかしながら、事は会戦にまでは至らなかった。

 次回は「大公ユーリーとトヴェーリの借金の行方」。乞うご期待!!

 写真:現在のリャザンの町(xn--80aeibzdll2fj.xn--p1ai/goroda/r/1310-gorod-rjazan.より)

(文:大山・川西)

HOME > ロシア文化 > 中世ロシア興亡史講義 > 第127回

特定非営利活動法人 神奈川県日本ユーラシア協会
Некоммерческая организация "Общество Япония-Евразия, отделение префектуры Канагава"

〒231-0062 神奈川県横浜市中区桜木町3-9 横浜平和と労働会館5階
Tel / Fax : 045-201-3714  E-Mail : E-Mail  MAP

(c) Copyright by Specified Nonprofit Corporation Kanagawa Japan-Eurasia Society. All rights reserved.