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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第86回 去り行くアンドレイ二世

汗の代官

 アンドレイ二世は、兄アレクサンドルが何のためにキプチャク汗国に出立したのか、確実に知っていた。兄の帰りを待たずに、彼は、弟ヤロスラフの従士団の助けを得て、アレクサンドルの世襲領地であるペレヤスラヴリ-ザレスキーを占領した。そこは当時堅固な防衛が施されていた町であり、アンドレイ二世はペレヤスラヴリ-ザレスキーを根城として兄に対抗することを、ひいては将来的にはタタールとも対抗することもあり得ると想定していた。だが、ネヴリュイ汗の軍隊は手強いことが判明し、ペレヤスラヴリ-ザレスキーの放棄を余儀なくさせられたアンドレイ二世は、ウラジーミルで貴族会議を招集した。貴族会議では、汗の裁きの公正さに期待することはできない、という結論に至った。ごく近しい貴族の側近らと共に大公はノヴゴロドへ出発したが、そこでは受け入れてもらえず、さらにプスコフを経由してレヴァルへ向かった。ここに大公は家族をしばらくの間残し、彼自身は身の隠れ場所を得るためにスウェーデンへ発った。スウェーデンとの交渉は首尾よく行われ、しばらくしてアンドレイ二世の家族全員と近しい取り巻きがスウェーデンに住み着いた。

 その後数年経った1256年、アンドレイ二世の一行全員がルーシへ戻った。おそらく、兄のアレクサンドルは弟に対して罪の意識があったのだろう。彼は愛情と尊敬を持って弟を迎え入れ、弟にスーズダリ公国を譲渡することさえ望んでいた。しかし、汗は、自分の裁きから逃走した元大公のアンドレイ二世に依然として激怒しており、そのためスーズダリ公国の譲渡のことは見合わせるしかなかった。アンドレイ二世がニージニー・ノヴゴロドへ去っている間、アレクサンドルは使節団を通して、その年、汗をなだめ、汗とアンドレイ二世を和解させ、弟にスーズダリ公国を譲渡することに成功した。

ベルケ汗

 1257年、アンドレイ二世は大公アレクサンドルと共に、汗の新代理人ウラグチに贈り物を届けるために汗国を訪れた。翌年、汗の意志に従って再び兄と汗国を訪れ、そこから兄と、またタタール人の調査員と共に、住民の戸口調査を行うためノヴゴロドへ出発した。

 1263年、大公である兄の死を、アンドレイ二世は晩年を過ごしていたスーズダリで知った。彼は一族の最年長者となったが、汗国の承認を得ないでは大公国統治のことなどについて話すこともできなかった。アンドレイ二世は新汗ベルケのもとへ使節団を差し向けたが、しかし、ベルケは彼の弟であるトヴェーリ公ヤロスラフの出頭を求め、ヤロスラフがウラジーミル大公国統治の勅書を受け取ることとなった。

 1264年、アンドレイ二世はスーズダリで逝去し、そこで彼は十分な敬意を持って埋葬された。

 次回は「兄アレクサンドルの若き日々」。乞うご期待!!

(大山・川西)



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