◆ 第107回 タタール軍によるルーシの地の蹂躙
1293年、兄ドミートリーを大公位から引きずり下す考えを捨てていなかった弟アンドレイは、幾人かの諸公と申し合わせ、彼らと共にキプチャク汗国へ兄に対する不満を訴えるために出発した。とはいえ、ドミートリーが弟に対するいかなる軍事行動にも着手していなかっただけに、彼らの訴えは要領を得なかった。
しかし、キプチャク汗国の新汗トクタ汗にとっては、それはいかなる意味も持っていなかった。ドミートリーがキプチャク汗国に敵対するノガイ汗国で大公国の勅書を手にした、その事実で彼を排除するには十分であったのである。アンドレイの差し金によって、トクタ汗の兄弟トデゲンが指揮するタタールの大きな軍隊がスーズダリの地へ差し向けられた。トデゲンはウラジーミルを占領し、スーズダリ、モスクワ、ドミトロフ、ユーリエフ、ウグリチなど周辺の14の都市を破壊、略奪した。このトデゲンの侵入は、ルーシ諸公がそれまでタタールより受けた軍事的制裁の中でも最大規模のものであった。
大公ドミートリーは、自分の父親のネフスキー大公から勇気も判断力も学ばなかったらしい。今回も彼は最初にヴォロクの地へ、その後さらに遠方のプスコフの地へと逃亡した。この時ドミートリーは知らなかったはずがない。無傷で生き残った住民が各地からトヴェーリの地に集結し、手に武器を持てるすべての者たちが「最後の一人となるまでタタール人と戦う」と誓っていたことを。臆病者の大公は、タタール人がトヴェーリの地まで来ないことが明らかになった後に、ようやくそこへやって来る始末であった。しかもそれは、トヴェーリの大主教アンドレイを自分の弟のアンドレイと話し合わせるために送り出す理由でやって来たのであった。
タタール人はそうこうしている内に、ヴォロクの方向へ軍隊の向きを変えた。これは、彼らの進路がノヴゴロドであることを完全に意味していた。ノヴゴロドの人々は急いでトデゲン汗に豪華な贈り物を送り、無条件にアンドレイを自分たちの公として認めた。
ドミートリーの使者であるトヴェーリの大主教とアンドレイとの交渉によって、1293年の末、兄弟間で最終的な講和条約が結ばれた。ドミートリーは“自発的に”ウラジーミル大公国を放棄し、アンドレイは“寛大”にも、ドミートリーの世襲領地であるペレヤスラヴリ-ザレスキーを彼に残すという結果になった。ドミートリーはトヴェーリから自らの世襲領地へ向かった。
その道中、ドミートリーはひどく病みつき、ヴォロクの地で宿泊し、そこで修道士になるための剃髪式を受け入れ、そして1294年の初めに死去した。公の遺体はペレヤスラヴリ-ザレスキーに運ばれ、スパソ-プレオブラジェンスキー聖堂に埋葬された。
次回は「血にまみれたアンドレイ三世の即位」。乞うご期待!!
(大山・川西)
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